2010-10-29

この閉塞感は誰が作り出しているんだろう。

ふとした瞬間に何もしたくなくなって、世の中大変なことばっかだなって気がついて、駄目人間だって思わされる。

一体全体誰の陰謀なんだろう。

僕を憂鬱な気分にさせて、何がしたいんだろう。何をさせたいんだろう。

創造主に向かって反逆を起こす物語って、何が幸せかって、誰が自分たちの世界を作り出しているのか気がつけることだと思う。

無知は不幸だ。一方で幸福なのかもしれないけれど、やっぱり不幸である事実のほうが大きいと思う。

知ってしまう絶望と、知らないでいる虚無感と、いったいどちらを選べばいい。

仮想敵を作れることは何にも勝る幸せだ。宗教と同じだ。

信じることによってその人の世界観が決まり、常識や知識が増えていくのだとしたら、何でも信じられる人になってしまえばいい。

人を疑うことさえも信じられてしまえばいい。人に疑われていることも信じられてしまえばいい。

原理的になって、排他的になって、僕と相反する敵の存在を信じ込んで、どこでもいいから攻撃し続けていられたら、たぶん救われる。

攻撃なんてしなくてもいいのかもしれない。恨んだり、あるいは愛することだっていいのかもしれない。

そう在る状態を信じこめられたら、たぶん救われる。

疑念など持つから苦しいんだ。苦しさのはけ口を敵に押し付けられたら大丈夫なんだ。

嫌うって、だからすごく正常な心理状態なんだろうと思う。誰も何も嫌うことができない人は、めちゃくちゃ苦しいし、そもそもいないと思う。

いてほしくないし。

冒頭に戻る。この閉塞感を作り出しているのが誰かだとして、しかしながらそれが内面的な錯覚だったとしたら。

実際のところはわからない。それが限界だから。そして、だから真実にすがりたくなるんだろう。信じることで作りあげた真実に浸っていられたら、物凄くハッピーだ。

宗教は偉大だ。宗教ってすごい。でも、僕は嫌いだ。宗教嫌い。

ひとつのことを信じるだなんて、多様性とか多面的であることが当たり前になった昨今じゃ不可能だもの。

一面的に捉えられていたらよかったのに。一元的な存在でいられたらよかったのに。

けれども今ここにいる僕がいる。だからどうにかしなければならないと思うのだけれど、いつも立ち止まってしまう。

綺麗な答えならいくつか思いつける。でも、その答えを実践するためには、まだ体が慣れていない。

言い訳ばかり並べて、何もしないまま、ただひたすらに閉塞感に喘ぎ続ける。

馬鹿みたいだ。

そんな素敵人生。みたいな。

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