2010-10-04

論理言葉弱者のための武器

いままで何度となく思ったことか。

もっと金があれば、もっと人脈があれば、もっと容姿が、もっと知力が、もっと生まれがよければ、もっともっと、ひとに好かれる性質に生まれついていれば…。

だが、わたしには、それらのものがなかった。

だから、観察した。だから、考えた。

本当にわたしは弱い。

一生懸命やった。だが、金のあるやつにあっさり負けた。

ものすごく工夫した。しかし、権力ねじ伏せられた。

とても気を配った。それなのに、人気者においしいところを持っていかれた。

しかも、さらにくやしいことがある。

それは、わたしを負かしたそいつらには、「勝った」という意識すらないだろうということだ。

ごくごく、自然体なのだ。

わたしがひとり、のた打ち回っているに過ぎない。

わたしなんて、彼らにとっては蚊のような存在に過ぎない。

だから、わたしは考えた。

自分の持っている、数少ない手持ちの武器とはなんだろうか、と。

外部のものも含めて、使用できるリソースはほとんどない。

資産もなく、頼れる友人や親族もいない。容姿は論外で、頭も悪い。

そこで、わたしの達した結論は、最後までわたしに残されているであろう能力を使うことだ。

それは、論理言葉をうまく使うということだ。だからそれを磨く。

一見すると、これらは知力に分類されるように思える。

だが、わたしの考えは異なる。知力とは、生まれつき定まっているものだ。

知力に恵まれているやつは、リッチリソースの持ち主だ。わたしとは格がちがう。

ここで言う、論理言葉をうまく使おうとすることは、限られたりソースをうまくやりくりすることだ。

わたしに圧倒的な力があれば、こんなことは考えずに済む。

それは、圧倒的な暴力の前では、言葉による説得がむなしいのと同じだ。

わたしにとって、論理言葉をうまく操れるひとは、重要モデルだ。そういうひとに、わたしはなりたい。

以前は、単純に、そのような人たちは頭が良いのだろうと思っていた。

しかし、いまはちがった見方をしている。いや、自分のために、ちがった捉え方をするようになった。

そのひとたちは、本当は「弱者」だということだ。だから、論理言葉を使う能力を発達させた。

なぜなら、圧倒的で、直接的な力があれば、そんなまわりくどい方法は必要ないからだ。

わたしは弱い。だから、論理言葉を磨く。

しかもおそらく、それでも勝てる見込みは薄いのだ。

誰もが持っているであろう、論理言葉という基本装備に頼る。それしか道はない。

これこそが弱者の証だ。

論理言葉こそ、弱者にとっての最後武器だ。

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