いままで何度となく思ったことか。
もっと金があれば、もっと人脈があれば、もっと容姿が、もっと知力が、もっと生まれがよければ、もっともっと、ひとに好かれる性質に生まれついていれば…。
だが、わたしには、それらのものがなかった。
だから、観察した。だから、考えた。
本当にわたしは弱い。
一生懸命やった。だが、金のあるやつにあっさり負けた。
とても気を配った。それなのに、人気者においしいところを持っていかれた。
しかも、さらにくやしいことがある。
それは、わたしを負かしたそいつらには、「勝った」という意識すらないだろうということだ。
ごくごく、自然体なのだ。
わたしがひとり、のた打ち回っているに過ぎない。
わたしなんて、彼らにとっては蚊のような存在に過ぎない。
だから、わたしは考えた。
自分の持っている、数少ない手持ちの武器とはなんだろうか、と。
外部のものも含めて、使用できるリソースはほとんどない。
資産もなく、頼れる友人や親族もいない。容姿は論外で、頭も悪い。
そこで、わたしの達した結論は、最後までわたしに残されているであろう能力を使うことだ。
それは、論理と言葉をうまく使うということだ。だからそれを磨く。
一見すると、これらは知力に分類されるように思える。
だが、わたしの考えは異なる。知力とは、生まれつき定まっているものだ。
知力に恵まれているやつは、リッチなリソースの持ち主だ。わたしとは格がちがう。
ここで言う、論理や言葉をうまく使おうとすることは、限られたりソースをうまくやりくりすることだ。
わたしに圧倒的な力があれば、こんなことは考えずに済む。
それは、圧倒的な暴力の前では、言葉による説得がむなしいのと同じだ。
わたしにとって、論理や言葉をうまく操れるひとは、重要なモデルだ。そういうひとに、わたしはなりたい。
以前は、単純に、そのような人たちは頭が良いのだろうと思っていた。
しかし、いまはちがった見方をしている。いや、自分のために、ちがった捉え方をするようになった。
そのひとたちは、本当は「弱者」だということだ。だから、論理や言葉を使う能力を発達させた。
なぜなら、圧倒的で、直接的な力があれば、そんなまわりくどい方法は必要ないからだ。
しかもおそらく、それでも勝てる見込みは薄いのだ。
誰もが持っているであろう、論理と言葉という基本装備に頼る。それしか道はない。
これこそが弱者の証だ。
人は論理では動かない。
かねか
利害と感情。 「金」の有用性も個々人によって違う。