2010-08-19

今日子供に育てられた俺

友達は少ないし、何事においても一番になれない奴だし、女にはフラれるのがデフォだし、俺のことをボロクソに言う人もいるし、そしてもちろんイケメンじゃない。

でもなぜか、人生辛いなとは思ったことがなくて、今だからそう思えるんだろというレベルじゃなくて本当に悩みということを抱いたことが無いレベル。世の中完璧じゃないけどまぁ悪くないと感じてるし、根拠はないけど将来はもっといい世の中になるとすら感じてる。

思春期にすら何かで深く悩んだ経験はないし、そんなんだから自殺選択肢で考えたこともない。(自殺を考えたことがないことは、実の母親から“あんたは気楽でいいねー”、と当時言われた。俺はめったに悩むことはなかったけど考え込むことはよくあったので、気楽に見えていたのが不思議だった。後で聞くと、母親は何かで深く悩んで自殺を考えたことがあるらしい。)

そんなちょっと感情的母親だけど、親と自分の関係を疑ったことはないし、親の愛情を疑ったこともないし、兄弟も仲がよくてお互い信頼している。でも所詮は親子も兄弟も他人という感覚というか覚悟はかなり昔から持ってる。

何かをやる時は、親や先生が何と言おうと結局は自分で決めて自分がやりたいからやるという考え方を昔から持っていた。それこそ小学生のころから。(人の話を聞かずにやりたいことだけやる我侭なガキ、では無かった。でも納得して、それが正しくて俺がやりたいことだときちんと腑に落ちないと何もやらなかった。だから、理屈っぽいガキだった。)今でも俺はそういう考え方をする癖がある。一つ例を挙げると、ヨメを大事にするのも子供と遊ぶのも子供健康を祈るのも、ヨメのためでもなければ子供のためでもなければ、ましてや世間一般がそうすることに価値を置くからではない。自分のためにそうするのだ。ヨメに幸せになって欲しいし子供幸せ人生を送って欲しいと願う俺がいるから、俺はその考えに基づいてヨメと子供を大事にしている。同じように俺は世の中が良い世の中であって欲しいと願うから、自分自身が良い市民であるようにつとめているし、世の中を大事にする。

子供のころからだから、自分がやっていることは実は自分がやりたいからやっているのだという考え方は、俺の中でかなり根強いらしい。だから、他の人も同じような考え方をしているんだろうなぁと思っていた時期もある。けど、どうやら違うらしい。なにせ、やりたくない事でもやらなきゃいけない事はある、なんて俺の周りの人間のほとんどは言うくらいだから。彼らはやりたくないことをやりたくないままにやっているのかな?それとも理屈説明していたら話が進まないからそうしているのかな、最近の俺もそうだし。

そんなベースの考え持っていて、高校生の時はコギトな人だねとか言われたことはあるけど、哲学なんてかじったことすらないし、哲学本も読んだことがない。何のために生きるのか考えたことなかったし、自分とは何なのか考えたことないし、その自分人生意味とかもちろん考えたことない。それを考える哲学という学問があるのは知ってはいたが、普通に理系に進んだ。

前置き長くなったけど、でも今日はじめて哲学に関する本を買った。『14歳からの哲学』って、名前からして入門書をぜんぜん14歳じゃない俺が買った。数時間で読み干した。何でこの俺が今日になっていきなり哲学本を、しかも14歳向けの本を読もうと思ったかは、子供との会話。今年になって子供が色々と話をできるようになってきた。この年頃はどの子もそうなんだろうが、死ぬって何なの?何で私は生まれてきたの?私はどうして○○ちゃんじゃないの?なんて話すようになり、これは一度は哲学本を読んどこうと思ったのだ。

子供との会話がきっかけで哲学入門本を読んでみたわけだが、その本を読みながら新しい自分が生まれるような気がした。今日子供が私にくれた俺の第二の誕生日のような気がする。親は子に育てられるって本当だな。

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