「大勢の命を救うために少数の命を犠牲にする」について、当然のようにYESと答える人がいる。
①少数と多数の2つのグループが危機に陥っていて、どちらかしか助けられない場合
この場合は、多い方に決めるしかないと言えそう。それで良いと思う。
②多数のグループだけが危機に陥っていて、たまたま居合わせた少数者を犠牲にすれば多数を助けられる場合
この場合にまで、少数を犠牲にして良いと当然のように考える人がいる。確かに一理はあるんだけど、それは同時に怖い発想でもある。
何故かと言えば、そこで犠牲にされる少数者というのは、非が全くないんだよな。非が全くないのに、犠牲にさせられる。それは本当は凄く怖いこと。
例えば今の日本は、そこで少数者を犠牲にしない立場を採っている。だから、日本では自分が犯罪を犯すか、あるいは犯罪や事故に巻き込まれないように気を付けていれば、安全が確保されると信じられる。
じゃあ、そこで少数者を犠牲にする立場を採ったらどうなるか。自分は何の犯罪も犯さず、自分自身が犯罪や事故に巻き込まれないように気を付けていても、国家権力によって、見知らぬ他者を救うための生け贄にされてしまうというリスクが出てくることになる。そんな理不尽な話はないし、そんなリスクのある社会では暮らしたくないと思わないだろうか。
そういう意味で、「大勢の命を救うために少数の命を犠牲にする」という思想は、一見すると正しいようで、その裏側には怖ろしいものがあると俺は思う。
○2の場合: 賛同する面もあるけれども、実は自分が「命の危機に陥っている多数のグループ」に属する確率ってのもあるから事態は複雑。 何も条件がなければ 命の危機に陥っている...
自分が少数に入ってしまった場合の懸念が中心になってるけど、自分が多数に入ってしまったときについては? 多数に入るリスクのほうがでかいと思うのだけど
なんで? 自分が生贄になるリスクはないぞ? 社会主義者や、共産主義者や、ユダヤ人や、障害者や、同性愛者や、ロリコンを生贄にすればいいだけじゃん。 その程度の立ち回りもでき...
ダブスタが通じることを当然の前提にしているコメントばかりで吹いたw