学校が終わり、それまで少しだった教室内のざわめきがそこに輪をかけて大きくなる。椅子を引く音、堰を切ったようにあふれ出すしゃべり声、廊下へ駆け出す足音。そんなさまざまな音が、それまで”うるさく”はなかった空間を埋めようと突然現れる。きっとそれは、場所は変われど、どんな学校でも見ることのできるありふれた情景だろう。授業の間、主役だった先生の役が終われば、それまで潜めていた自分たちの存在を何かにアピールするかのように、それぞれの生徒たちがそれぞれの音を発する。それはまるで、潜んでいた時間の分まで自分の存在意義を取り戻さんとするかのようにも思える。
大声で騒ぎ出す子、隣のクラスへ友達を探しに行く子、放課後の下校時刻が過ぎるまで校庭で遊ぶ仲間を募る子供、それぞれが授業の間、今か、今かと最後のベルが鳴るのを我慢して待ち望んでいたことへと全力で走り出す。授業中に消費することのなかった分もあわせて、その日に使える全てのエネルギーを使い尽くさなければならないかのように、子供たちは動き出す。
しかしそれは長い人生の中で見れば、ほんの一瞬の期間でしかないのだろう。休み時間、放課後と毎回のように爆発的に発していたパワーは、中学生になり、高校、大学と年齢が増すごとに回数を減らし、いつの間にか、よほどのことがない限りそんな風に行動することはなくなる。
確かに高校生、大学生でそういったことをしていたら大人気ない、と言われるのがオチだろう。そんなことを小学生のように毎日していたら、持つものも持たない、と指摘されてしまうかもしれない。確かにそれももっともだ。部活や勉強、アルバイトに人間関係と、他に気をつかわなければいけないもっと大切な時間が他に十分あるだろう、と言われれば返す言葉もない。
年を経て、さまざまな部分で自覚が芽生え、色々な場面で個人としての責任が出てきた結果、自分が、あるいは周囲の人が望んだ結果としての道に進むために勉強し、部員として部活動を行い、必要なものを得るのために働き、周りの人々との関わりを守るのに残った時間を割く。そこには確かに、自分の生活への意義があり、理由が存在し、その一つ一つに対して体力や精神力が必要とされる。
そのためには、”余計な”場面で使うものはなるべく減らし、考えて行動しなければいけない。小学生のとき、授業中に使えなかった元気の一部は、最早使わないのではなく、使わずに”貯める”ものへと変わり、何をするにしても損得を考えて行動するようになっていく。
それは年を経るにつれて学んだ、ということでもあり、言ってみれば、それが”大人になる”ということなのかもしれない。
けれども改めてそのことを考え直すとき、それは本当に得なんだろうか?
何も考えずに自分のしたいことに向かって純粋に走り出せた小学生のあの頃と、常に先のことを考えてから行動するようになってしまった今の自分、どちらが損で、どちらが得なんだろうか。
確かに仮に今も自分があの頃の自分、そのままであれば、わがままであったり自己中心的な行動ととられてしまうだろう。けれどもそれを、小学生の自分は”自由”と呼ぶのかもしれない。いや、むしろ、そんなふうに比べてしまっているその考え方がすでに”損得”で考えてるってことなんじゃないの、とそういわれてしまうような気がしてならない。