働くことに疲れている。仕事そのものよりも、周りをとりまく人間関係に疲れている。
思えば昔から、人から好かれない人間だった。友達が少ない人間だった。
一人でいることを好むと同時に、人に対して、不快感を催す振る舞いをおそらくしているのだと思う。
対個人への振る舞いとは別に、反感を買う点があるとすれば、集団に適応する能力に欠けていることだろう。より正確に言えば、適応したい意思をもっているフリすらできないことが挙げられるかもしれない。明るく楽しくみんなと打ち解けあうことが昔から絶望的にできない人間であった。一人でいることを許さず、「仲間の輪」をやたらと求める風潮に不満を抱いていれば、周囲の人間は敏感に察知することと思う。
「明るく賑やかな職場と和ぃ和ぃコミュニケーション」という臭気ただよう文字をデカデカと横断幕に書き、職場に張り出すほど、なぜみな集団主義を好むのだろう。
朝礼では、1分間褒め合い運動と称して、同僚や部下の良いところをハキハキと元気良く、みなの前で褒めなければならない。「真剣に考えたが、どこにも良いところは見つからなかった」などと本当のことを言ってはならない。(言うまでもなく、「みんなの」気分が壊れるからだ。) どうでもいい些末なエピソードを披露して無理やり褒め、みんなでわっはっはと笑うと、彼らは気分が良くなり、幸せになるのだという。だから、「みんなで」褒め合おうということらしい。
真実、素晴らしいと思ったときに言葉に出して褒める自然な行為は、良い効果をうむと思う。しかし、義務や集団ルールと化した途端に一気に色あせ、醜悪な行為となることになぜ気づかないのだろう。(などと思わないから、強制的な賞賛を欲しているのか。)
こうした運動に賛同する人達だけでやるのなら、どうぞご自由にと思っている。しかし、「普通の人」はいささか傲慢である。自分たちの感性は、他人の感性と地続きだと思い込んでいる。自分たちの気分が良くなることは、他人もまた愉快であると信じて疑わない。自分が楽しくなることなら、無条件に他人も喜ぶと信じきっている。そして、大多数が楽しいと思うことについて、楽しくなさそうな素振りを見せるはみ出し者を絶対に許さない。少しでも不満げな顔をしていれば、「どうして君はそんなにクールなの」とさっそく告発の準備に入る。表情筋の演技をすれば告発は免れるが、それもそれでどっと疲れるのである。
(こういう文脈で「クール」という言葉に良い意味はない。みんなと一緒に笑わずに「ムスッとしている」ことを非難するときに、彼らがオブラートに包むために好んで使う言葉である。)
こうした職場で業務で困ったことがあっても、もとより人に好かれない性格に拍車がかかり、誰も味方になる人はいない。書いていて、つくづく自分のような人間には合っていない職場であるなと思った。もっともドライな職場でも人に好かれない程度は変わらぬと思うが、価値観が合わない場所に留まっている自分も、半分は責任がありそうだ。とにかく精神的に疲れきっている……。
そういう愚にもつかない人間達がこの世には多いと言う事だ。自分に合う世界を探すべきだ。