家で起きたときは収まるのを待てばいいが、公衆の面前で、しかも友人の前でそういうことはできない。友人は何も知らない。知ったとしても避けられるかもしれない。
だから、発作に抵抗した。駅につくまでに気絶してはまずい。なるべく人の少ないところまで、トイレまで意識を持たせないと。
視界が半濁する。足が震える。吐き気が止まらない。感覚が鈍る。正常な判断もおぼつかない。
しかし、耐えた。耐えるほかすべてを満足させることはできなかった。
駅についた。どこの駅かもわからない。俺は友人に別れることなく、電車を降りる。そのとき、友人が何を思ったか、どんな表情をしていたか、それを気に掛ける体力はなかった。
足許がはっきりしないが、バランスを崩していることだけは理解できた。その間もなく、俺は売店のシャッターに背を打ち付け、倒れ伏した。
もうダメだとわかっていたが、何とか立ち上がらないといけない。しかし、立ち上がることができない。何もできない。僅かな意識しかない。
そのとき気絶するまでいくらかの時間があったが、少なくとも、話しかけてくれたのは見知らぬ女性ひとりだけだった。ほか友人を除き、すべては私を無視した。友人でさえ、振り向かなければ、シャッターの音を耳にしなければ、そのまま行ってしまったと言う。そんな危険な状況が待っていた。
気がつけば駅事務室内のベッドに横たわっていた。友人は隣にいてくれた。時刻はもう確実に夜9時は過ぎていた。その時刻とやらも、頭の中を整理したあとの結果に過ぎない。今何時か、友人がなぜそこにいるのか、理解するまでにかなりの時間を要した。
そのとき私は友人に何ができたか。「今は夜」ということしかわからない。「ひとりで大丈夫だから」と言ったことは覚えている。それに対してなんと言われたかも覚えていない。出来事の前後も覚えていない。ただ、帰りに友人はいたので、俺が言ったことは聞き入れてもらえなかったようだ。
倒れてからトイレに行ったこと、そこに酔いどれ中年サラリーマンがいたことは、覚えている。そしてそのトイレで吐かなかったこと、安堵とともに空虚な気持ちが広がっていったことも、覚えている。駅員が別な部屋に複数いて、事務的な話をしていることも、覚えている。
私だけで判断すれば、てんかん発作は苦しい時が過ぎると、極めて強烈なエクスタシーが次に待つ。艱難から脱した達成感とも、性的な満足感とも異なる、奇妙な開放感が、脳内を満たす。しかし、この反応は自分にとって何らいいものではない。
どれくらいの時間をかけて意識がはっきりしたかはわからない。帰りの電車ではもう意識が澄み渡っていたし、適度に友人とも会話したが、何を話したかまでははっきりしない。家への帰り道も不都合なことはなかった。いつも以上に寝付きだけは良かったかもしれない。
次に友人と大学の講義であったとき、「もう、大丈夫なの?」と尋ねた。真意はわからない。私は「うん、もう大丈夫」とだけ言った。表情はたぶん笑っていなかったのではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20100407183234 ↑書いた増田です。 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110420-OYT1T00017.htm 「持病の薬飲み忘れた」6人死亡事故の運転手 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) どうや...