中学生のころの教室の様子。40名程度の生徒のなかにはいろいろな派閥やグループがあり、その中にアニメ・漫画好きな男女数名のグループがあった。典型的な「オタク」グループだったといってよいだろうと思う。
しかしその面子は様々だった。典型的な内向的文学少女、子供っぽさが目立つ者、ほとんど誰とも喋らない者がいる一方で、今や司法の場で活躍中のあらゆる点で秀才だった女子も含まれており、外国映画と文学を愛し、少女漫画を巧みに描く彼女はその中で一目おかれているようにみえた。グループの外部へと気軽に越境できる者もいれば、そこに閉じ込もるしか術のない者もいた。しかし客観的にはやはり彼ら/彼女らはひとつの具体的なグループであった。グループとそれ以外の者の関係を客観的に見た場合、そこにはグループへの蔑視感情があったように思うが、5・6名ほどだった彼らはそうした状況に文字通り背を向け、楽しげに過ごしているように見えた。
その蔑視感情について、彼らがバラバラにそうした状況にさらされていたらどうだったろうかとふと考える。私が身近で発生した事件によって知ったことは、最悪の場合は自他へ暴発する暴力によってその解決、文字通りに復元不能な解決が図られることもあるということだった。同じクラスで生じた事件だったが、事件を起こした者は非常に厳しい孤独を生きることを強いられており、オタクとすら呼ばれてなかった。オタクグループはジョックとナードでいえば完全に後者ではあったが、いじめの対象になっていた男子や、持病によって虫ケラにように嫌われている女子生徒はそこにすら属しておらず、属すグループというものがなかった。
また、コロンバイン高校を知っている私は、仮にオタクグループがもっと小さなものだったとしたら、彼らの感情のエコノミーが正気の範囲で機能していたかどうかは分からないとも思うようになっている。そして彼ら/彼女らの精神的な指導者であったあの才女がいなかったらどうだったろうか、とも。
今から思えば、オタクへの嘲笑と典型的イジメは相似をなすある種のヒエラルキーとして機能していたのかも知れない。暴力的激発もなく淡々と結束していたオタクグループは、「集まり、交流する」というさりげない方策によって自身とクラス全体の平穏を延命させていた。つまり必ずしも性向の一致しないオタク達がグループとして存在するという様態はクラス全体が選択した護身のための解であったのかも知れない、と思う。そして本当の暴力はさらに死角においやられていたのだと。