ミニスカートに欲情するというとき、いったい欲情している男には何が起こっているのだろうか。ミニスカに欲情するということを、即「ミニスカをはいている女とセックスしたがっている」と解釈するのは間違っている。
僕の考えでは、ミニスカに欲情するとは、ミニスカをはいている「状況」あるいは、その状況が喚起する「イメージ」に対して欲情しているのである。森岡正博も、『感じない男』のなかで、征服萌えについての説明の中で、「制服に射精したい」という言い方を、「少女が制服を着ているという状況そのものに向かって精液をかけたい」と言い直している。ミニスカへの欲情も、これと似たことがいえるのではないだろうか。
ここで一人の天才の話を出そう。哲学者のウィトゲンシュタインである。彼は、数式を解きながらオナニーをしていたという。どうしてそんな話を持ち出すのかというと、ウィトゲンシュタインのオナニーと、ミニスカへの欲情は構造的に似ていると思われるからである。
ミニスカという格好は、その中に隠されたパンツが、見えるかもしれない、という予期を強く喚起させる。欲情するかどうかはともかくとして、とにかく他の格好と比較して圧倒的にパンツが見える可能性が高いのがミニスカである。ミニスカを見れば「自然に」欲情してしまう、という意見に賛同できない人も、それがパンツの見える可能性を高める格好である、ということには同意していただけるのではないだろうか。そして、ここに数学の問題とミニスカの共通構造が見出される。すなわち、隠されているものが露わにされることへの予期を与える、という構造である。
違うのは、隠されているが露わになる可能性のあるものが数式の答えであるのか、パンツであるのかということである。このように考えてみると、性的興奮を感じる本質的な構造の一つとして、「隠されているものが露わになることへの予期」ということが定式化できるのではないだろうか。
他に補足的なことも少し述べる。ミニスカが「自動的な」欲情の対象ではない、という意見を主張するために、ミニスカの機能性に注目し、「ミニスカは動きやすさのためのものだ、それに欲情するのは欲情する人間が下衆なだけだ」という主張がなされることがある。しかし、動きやすさだけを考えるなら、そもそもスカートそのものをはかなければよい。パンツ一丁になればよい。なぜそうしないのか。恥ずかしいからである。パンツを覆う服は絶対に必要である。ゆえに、パンツの上に穿くミニスカは「パンツを隠している」という意味の読み込みを避けられないのであり、そしてパンツが他の服に比べてより見えやすい格好であることによって、ミニスカは「パンツを隠す」という意味をより強く読み込ませてしまうのである。そして、上述のように、そのことに対する欲情とは、ミニスカをはいている女とセックスしたいという即物的なものではなく、あくまでも構造的な問題であって、女そのものというよりは、「状況」に対する欲情なのである。
ついでに、いわゆる、「男は獣」という表現についても一言。「男は獣」というとき、批判派はすぐに「男は獣」→「男は理性では性欲を抑えられない」→「レイプは自然なこと」→「加害者は免責される」という自動化されたロジックを前提にしている。しかし、僕としては、理性で制御できない欲望がある、ということと、レイプは自然なこと、レイプ加害者に非はない、ということは自動的に結びつくわけではないと考える。たとえ自分の意のままにならない欲望があるとしても、それに責任を負うのが人間てものでしょう。それに、「今」は制御できない欲望も、「将来」は制御できるかもしれない。人間は変わりうるからね。だから、そのために、加害者を免責するのとは別の意味で、加害者の欲望を、なぜそんな欲望を持ってしまうのかということを考えるのは重要だと思うよ。
一人でやっていると大変だろう?w
レイプに限らずどんな犯罪でも、決行に至った瞬間は理性では制御できないもんだと思うんだけど、なんで心神耗弱が認められないんだろうね? あと、レイプって衝動的に起こす犯罪で...
うまく言えないんだけど、レイプの実行を理性で制御できないのと、計画的に犯行に及ぶっていうのは両立する可能性があるんじゃないかと思うんだけど。