なにかについて自分の意見の正しさを主張するとき、その根拠が正しい情報かどうか、それが根拠として十分で「だからこれが正しい」と言えるものなのかどうか、などなど、考えてしまって自信が持てない。そもそも絶対の自信なんて持ち得ないというか、持つべきではないものだとも思う。そんなに単純じゃないし何に重きを置くのかの価値観は人それぞれだし、人の知識や思考には限界があるし。だけどなんの意見も持たずにいることもできない。自分が間違ってるいるんだと思っているときでさえそんな自分を正しいと思う自分がいて、世の中には意見を求められるし。そんなわけで、私は常になにかしら意見を持ちつつ(それを主張するかどうかは別として)いやしかし間違っているかもしれないと思って暮らしている。一体どこまで考えどこで考えるのを止めればいいのか、「自分の意見」というものとどう付き合えばいいのか、そういうことについて増田に聞きたい。
例えば「自殺するのは個人の自由だ。なぜならそれは個人の身体だし、個人の人生だからだ。育ててもらった恩だとか周囲にかける迷惑だとかそんなことは関係ない。全て社会が勝手に言っていることで、自殺する人間はそういう押し付けられたものを拒んで死ぬんだ。」という意見についてどう思うだろうか。
(1)その理由でその結論を持つに足るとしたことに根拠はあるか
更なる思考が異なる結論をもたらす可能性は常にあると思う。かといって延々と考え続けるわけにはいかないので適当に切り上げるのだけど、どこで切り上げたらいい? 増田たちはどうしてるの? そこで切りあがる=途中で終わりにする、で、だから間違っているかもしれないと不安にならない?
(2)自分の意見を「正しい」と思うか、思うならなぜか、どのように「正しい」のか
自分の意見を持つことには持たざるを得ないようなところもあるので多少目を瞑ってもらうとして、その意見でもって人や物を批判するとき、批判するに足る理由というのはどういうものだろうか。どういう意識で言っているんだろう。(例えば「君の意見は僕のと違うね、僕はこう思うのだけど、どう思う?」ということなのか、「君は間違っているよ、正しいことを教えてあげるね、こうだよ」ということなのか、「あああ分からない君の言うことが全然分からないよ!僕の頭にあることを聞いてくれ言わずにはいられないんだ!」ということなのか。)
(3)中立の立場(「分からない」「なんともいえない」)でいることの意義
分からないということの自覚は大切だと思うのだけど、認めてしまったら逆に分かることがなくなる気がする。加えて、「一概には言えないよ、だって…だけど…だし…」というような状態でいると、それはいろんな事実を知る限り並べたものだからとても「正しい」のだけれど、そのまんま過ぎて意味がないように思う。なにか考えるときに(例えば自殺に関する法律の制定だとか、予防策を講じるべきか否かとか)は「意見」が必要だ、でも「分からない」、という場合どうしたらいいんだろう?
(4)別の意見、別の正しさをどう思うか
もしかしたら増田の意見は反社会的で有害で愚かで誤った情報に踊らされた結果の無意味なものかもしれないけれど、それに気づくのは難しい。自分の意見は間違っているかもしれないと意識しているだろうか、すべきだろうか、どうしたら自分の誤りに気づけるだろうか、あるいは別の正しさにシフトできるだろうか。
(4)哲学ってどうよ
考えているといつも「ああこんなこと考えるの自体なんか違うんだろうなぁ」と思うのだけど、どうなんだろう。これが哲学かどうかはともかく答えが出ないことが殆ど前提になっているようなことと、どう付き合えばいいんだろう。とんでもない間違いをしていそうで怖い。
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