2009-11-25

俺にとっての「幸せ」の定義

幸せとはなんだろうか?

仕事と遊びが分断されていないこと」

これが俺の定義だ。

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「分断されている」とは一体どういうことか?

これは、次の二点を指す。

A. 遊ぶために、我慢して仕事していること

B. 仕事の疲れを発散させるために、遊んでいること

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順に説明しよう。

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Aの状態の人は、仕事自体に価値を感じない。

けれども、遊ぶお金が得られるので、我慢して仕事をしている。

彼にとって、遊びは、仕事より価値をもつ。

しかも、仕事は、遊びという価値をもたらす「交換価値」に過ぎない。

すると、当然、仕事を深く楽しめない。

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逆に、Bの状態の人は、遊びを深く楽しめない。

彼にとって、楽しい遊びとは、ストレス発散になる遊びである。

彼の中では、遊びがストレス発散度というワンパターン尺度で測られる。

これでは、遊びそのものを深く楽しめない。

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言うまでもなく、AとBは併発するのが普通だ。

そういう人のことを、俺は「不幸な人」とみなしている。

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そういう不幸な人は、AやBの状態を当然と考えている。

だから、そうじゃない幸福な人もいることを、説明する必要があるだろう。

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幸福な人は、次のような状態である。

C. 仕事のなかに遊びがある

D. 遊びのなかに仕事がある

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順に説明しよう。

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Cの状態の人は、仕事を遊びとして感じる。

全ての仕事を遊びと感じないまでも、多くの仕事をそう感じる。

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では、「遊びとして感じる」とはどういうことか?

それは、「多様性を味わい、その楽しさを追求する」ということである。

これが遊びの本質だと俺は考えている。

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例えば、ブランコという遊びを考えてみよう。

ブランコは、反復運動であり、何が楽しいのかと思うかもしれない。

これが不幸な人の感性である。

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対する幸福な人は、ブランコの中に多様性を見いだす。

いろんなやり方でこいでみる。

すると、いろんな味わいが生まれる。

「どんなタイミングでどうこげばどうなるか」

「立ってこげば、また違った面白さがある」

などの発見も生じる。

また、いろんな要素を遊びのなかで発見することもできる。

腰の角度、頭の位置、風を切る感覚、足を振り出す反射神経、遊具の音、景色の変化、などなど。

こういう多数の要素をもったものとして遊びを捉える。

そうすると、また異なる味わいが生まれる。

異なる味わいが生まれれば、新しい発見にもつながる。

そうして、いろいろ遊んでいるうちに、

「じゃあ、これくらい高くこげないかな」

などと目標を立てることもできる。

目標を立てて取り組めば、新鮮な角度から遊びを体感できる。

それに、創る喜びが生まれ、楽しい思い出になる。

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こうして、単調な物事であっても、味わい、発見し、目標を立てる。

そうすることで、遊びが生まれ、深まっていく。

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これと同じことが仕事にも言える。

仕事を単調な作業とみなすのではなく、そこに多様性を見いだす。

いろいろ変化をつけてよく味わう。

発見的に仕事をとらえ、いろいろ要素を見いだしていく。

そうして、さまざまな深みを感じていく。

すると、新しい深みを味わいたくなり、目標を立ててみたくなる。

その目標に意欲的に取り組むことで、喜びが深まる。

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これがCの状態、すなわち「仕事のなかに遊びがある」である。

長くなった。

今度は、Dの状態、すなわち「遊びのなかに仕事がある」について説明しよう。

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これは、遊びが享楽に堕していないということだ。

言い換えると、目的があるということ。

他人のため、社会のため、地域のため、未来自分のため、真理のため、美のためになっているということ。

「そんなことを考えていたら楽しめない」と思うかもしれない。

しかし、これは楽しむために大切なことだ。

なぜなら、享楽に堕していると、ワンパターン尺度でしか遊びを捉えられないから。

その典型例が、先に触れた「ストレス発散度でしか遊びを評価できない」という状態である。

なぜワンパターン尺度だと駄目なのか?

それは、発見が無いからである。

すでに述べたように、遊びの楽しさは、多様性にある。

発見のない遊びは、早期にマンネリ化してしまう。

そして、単調で浅い喜びしか得られないようになってしまう。

発見が無ければ、さまざまな味わいを見いだし、比べ、探求していくという深みが生まれない。

だからこそ、遊びは、単なる享楽であってはならない。

単なる享楽ではなく目的があることで、多様性の喜びがもたらされる。

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以上で、CとDの説明は終わりである。

このCとDの状態、すなわち、

C. 仕事のなかに遊びがある

D. 遊びのなかに仕事がある

を兼ね備えた人こそが幸福な人である。

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「では、仕事をしていない学生はどうなるんだ?」と思うかもしれない。

その問いに答えよう。

仕事は、義務と言い換えても同じ。

・遊びは、楽しみと言い換えても同じ。

これで、学生に対しても幸せ定義される。

すなわち、次の定義になる。

・義務のなかに楽しみがある

・楽しみのなかに義務がある

この二つの状態を兼ね備えていること。

それが俺の思う「幸せ」の定義である。

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