2009-11-18

死とは何だろう。

それは恐らく無である。

例えば脳髄が破壊された人間は死んでいるが、彼はその時何かを感覚してはいないだろう。

このような点において、死は無感覚であると言い切ることができる。


で、私が言いたいのはこうだ。

もし貴方が飛び降り自殺を図ったとする。その上で、きっちりとお亡くなりになったとする。

そしてその死体がだ、仮に保存されるとしてだ。(何故そうなるのかとか聞いちゃいけない、話が途切れることになる)

近い未来に、凄まじく革新的な蘇生医療が爆誕するとする。

そして貴方はその医療によって蘇生されるとする。いや、そうして下さい。


このことに及んで、貴方は恐らく、死んでいる間のことを覚えてはいないだろう。その理由は上記の通りだ。

そして、ここからが重要だ。

蘇生直後の貴方にとっては、地面に接触した次の瞬間に再び意識が表出したかのような、そんな感覚を覚えることになるのではないだろうか

(あるいは、蘇生後のしばしの昏睡状態を経験するとすれば、意識の表出は緩やかなものになるかもしれないが)。


結局のところ私が何を言いたいかといえば、死は安息などではなく、無なのだという、その一点に尽きる。

つまり死とは時間の欠落に過ぎないと、そう言えるのではないだろうか。

そしてもし仮にそうなのだとしたら、貴方が全てを清算する為に地面に激突したと思ったその直後、病院天井を見つめていた、などという事態になりかねないのである。

貴方が安息を経験したという事実は、そこにおいて存在しなかったと言えよう。

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