他人の作った「こどもらしく」「こどもなんだから」という像を
毎日押し付けられている。
「友達だから」「恋人だから」「もうお兄ちゃんでしょ」「受験生なんだから」etc
形は様々だが、何も無い人間は誰もいないし、一面しか持たない人間も誰もいない。
だから、大人になって初めて名札が付くわけではないし、
勿論、名札が付いて初めて大人になるわけでもない。
名札は、責任や期待の一端だと言える。
子供にも名札が付いている、その一方で
「こどもだから」許される部分もある。
名札にそぐわない行為をしても、
そういう無法な部分も「こどもらしさ」に含まれるからだ。
自分の役割を理解しているし、
責任を全うしようとするし、
期待に応えようとする。
そういったことを無理なくバランス良く
大人になってから改めて
「社会が」「名札が」と煩ったりはしない。
大人の付けている名札と比べれば、子供の名札は軽いものかもしれないが
だからといって軽々しく扱わず、それなりにきちんと向き合っていれば、
重い名札にも耐えられるように順調に成長できる。
これは、大人が抱える悩みと言うよりは、思春期の少年少女の悩みではないかな。
古臭い例えをするなら、「麻疹のようなもの」だと。
大人になるということは名札というものがつくということなんだ よく社会人の人や大人の人は、「●●として」という言葉をつかっているじゃないか 立場というものを使い分けていかな...
子供にも子供の名札がついている。 他人の作った「こどもらしく」「こどもなんだから」という像を 毎日押し付けられている。 「友達だから」「恋人だから」「もうお兄ちゃんでしょ...
思春期の自我の確立と、大学生になってからの自分探しと、さらに大人になってからのアイデンティティの確立を混同しているようでは駄目だ。 これらを一概に厨二病で片付けてしまう...
その三つの違いって、 当事者以外から見て重要なのかなぁ。 同じ扱いで良いと思うけど。 (当事者にとっては重要かもしれないけれど)
同じかどうかはともかくどれも意味のあるものだよね
当事者にとっては其々の意味があるだろうけど 第三者から見た時にその意味を差別化する必要性は無いよね?
あの手の認定って要するに表現行為だからなぁ。 意味がないといえば意味がないけれどそれを言い出すときりがないような気もするし。 そこは思考を煮詰めていかないと、もしくは煮詰...
思春期の自我の確立の場合、 表現と承認欲求だよね。 例えば、Aさんは 「俺は俺だ!お母ちゃんにコントロールされるだけの人形じゃない!」 と表現することで始め、それを母親に認め...
いや、そうじゃ無くて「中2病認定」に対して、表現行為って言葉を使ったんだ。
おお、そうか。 自分にトラバついてるからてっきり。
厨二病には相手を蔑むニュアンスがあるけど そうは言わずに麻疹と表現した意図を汲んでほしいな。
だったらそんなレッテル貼りみたいな言葉を使わずにもっと誠実に向き合うべきだとも思う。
レッテル貼りしたくないから「厨二病」を避けたんだけど?
普段は確かに心優しく言葉使いも良い私たちでも おまえのあまりの粘着ぶりに完全な怒りとなった 仏の顔を三度までという名セリフを知らないのか
普段は確かに心優しく言葉使いも良い私たちでも おまえのあまりの粘着ぶりに完全な怒りとなった 仏の顔を三度までという名セリフを知らないのか
重さはないと思うけどなあ。 役柄を演じられないなら、それが誰であれ処分されちゃうし。 悲しいもんだね。
そう、処分されてしまうね。 でも、子供は処分されるまでに猶予がある。 少しくらい演じ損なっても許容される。 その許容される幅が大人と違う。 それが厳しいほど、抱えるのが大変...
頑張って名札に負けない大人になっておくれ
高校の頃、国語の点数悪かっただろう?
名札にこだわるのは、自分の名札にコンプレックスをもっている人だけ。 結局のところ、どこへいこうとも、問われるのは「今、君は何ができるのか?」ということだけ。