表現と承認欲求だよね。
例えば、Aさんは
「俺は俺だ!お母ちゃんにコントロールされるだけの人形じゃない!」
と表現することで始め、それを母親に認められて完結する。
(あるいは、認められないとして諦めてしまっても完結するが
欲求としては承認欲求があるよね)
大人になってのアイデンンティティの確立の場合、
もし、承認相手が変わるだけなんだったら、
それは上述のAさんと変わらない。
「はいはい、あんたはあんただよ。」と言われたいだけだ。
誰かにお母ちゃん役を求めてるだけだ。何も変わらない。
それ自体は意味のあることだけれど、
その発露の仕方が「俺は俺だ!俺らしく!」という
思春期と同じ形で表れるのなら
周囲の反応としても思春期と同じ形で行うのが相応だし、
思春期の自我の確立と、大学生になってからの自分探しと、さらに大人になってからのアイデンティティの確立を混同しているようでは駄目だ。 これらを一概に厨二病で片付けてしまう...
その三つの違いって、 当事者以外から見て重要なのかなぁ。 同じ扱いで良いと思うけど。 (当事者にとっては重要かもしれないけれど)
同じかどうかはともかくどれも意味のあるものだよね
当事者にとっては其々の意味があるだろうけど 第三者から見た時にその意味を差別化する必要性は無いよね?
あの手の認定って要するに表現行為だからなぁ。 意味がないといえば意味がないけれどそれを言い出すときりがないような気もするし。 そこは思考を煮詰めていかないと、もしくは煮詰...
思春期の自我の確立の場合、 表現と承認欲求だよね。 例えば、Aさんは 「俺は俺だ!お母ちゃんにコントロールされるだけの人形じゃない!」 と表現することで始め、それを母親に認め...
いや、そうじゃ無くて「中2病認定」に対して、表現行為って言葉を使ったんだ。
おお、そうか。 自分にトラバついてるからてっきり。
厨二病には相手を蔑むニュアンスがあるけど そうは言わずに麻疹と表現した意図を汲んでほしいな。
だったらそんなレッテル貼りみたいな言葉を使わずにもっと誠実に向き合うべきだとも思う。
レッテル貼りしたくないから「厨二病」を避けたんだけど?
普段は確かに心優しく言葉使いも良い私たちでも おまえのあまりの粘着ぶりに完全な怒りとなった 仏の顔を三度までという名セリフを知らないのか
普段は確かに心優しく言葉使いも良い私たちでも おまえのあまりの粘着ぶりに完全な怒りとなった 仏の顔を三度までという名セリフを知らないのか