【この間東京で居酒屋に行ったとき、もちろんビールやおつまみをたくさん注文したあとで、友だちがヨーロッパみやげのデザートワインを開けよう、と言い出した。その子は一時帰国していたが、もう当分の間外国に住むことが決定していて、その日は彼女の送別会もかねて いたのだった。
フレンチレストランなどで持込に便宜を図ってくれる(ただし持ち込み料はしっかりとるのだが)店ならいざ知らず、居酒屋にワインの持ち込みができるものだろうかと思ったが、送別会への精一杯のお礼のつもりでワインを出してくれた彼女の気持ちを思うと、どうしても叶えてあげたくなった。
それで、お店の人に店長さんを呼んでくれる?と相談したら、気のいいバイトの女の子が「はい、かしこまりました」と言って奥に引っ込んで行った。
すると、店長というどう考えても年下の若者が出てきたのだが、年齢が上だろうが下だろうが、ルールを曲げてくれとお願いをするのはこちらである。
私たちは「突然で申し訳ありませんが…」と前置きして、ていねいに事情を言った。この人は、こういうわけでもう日本にいなくなるのです。その本人がおみやげとして海外から持ってきた特別なお酒なんです。どうしてもだめでしょうか? いくらかお金もお支払いしますから……。
店長には言わなかったが、もっと書くと実はそのワインはその子の亡くなったご主人の散骨旅行のおみやげでもあった。人にはいろいろな事情があるものだ。
しかし、店長は言った。ばかみたいにまじめな顔でだ。
「こういうことを一度許してしまいますと、きりがなくなるのです」 そりゃそうだろう、お酒の量販店が幅をきかせる昨今、持込を許そうものなら、つまみだけ注文してお酒は格安で買ってきたもので乾杯という人たちで店があふれかえるのは想像にかたくない。お酒が最大の収入であろう居酒屋はあがったりだ。店の人が大ごとと感じるのもしかたない、とみな怒るでもなくお会計をして店を出ようとしたが、そのとき店長が続けて言った言葉で立てかけた膝を戻した。
「ですが、私どもではご用意できないワインでもあり、事情もそういうことであれば、グラスをお出ししましょう。お代はいただきません。チェーン店のマニュアルにはない私の一存ですので。
先ほどの気のいいバイトの女の子が店長の指示でビールグラスを余分に出してくれた。コルク用の栓抜きはないということだったので、近所にある閉店後の友だちの店から借りてきた。
それで店長に感謝しつつ盛大に開けてにぎやかに乾杯をして、一本のワインを七人でちょっとずつ味見していたわけだ。
お客さんは私たちしかいなかったし、閉店まであと二時間という感じであったので皆の声が途切れたときに、厨房からバイトの女の子に語りかける店長の声が漏れ聞こえてきた。
「なあ、酒の持ち込みできる店はやっぱり好感度高いかな?」
「そうですねー。でも普通、誰もその店のメニューにあるのと同じお酒持ち込もうとは思わないですよ」
「そうだよな。今のひとたちみたいに、その店になくてしかも特別な意味のあるお酒とかだろうな。だったら、あらかじめ電話をもらってその酒の銘柄を聞いたうえでOkして、持ち込み料もらう…うん、次のブロック会議で提案してみよう」
頭の回る店長である。だが私たちのちょっと異様な年齢層やルックスや話し方を見てすぐに、みながそれぞれの仕事のうえでかなりの人脈を 持っているということがわかるほどの人生経験は積んでいなくてもしかたのない年恰好である。
お会計をして店を出ようとしたとき、店長がこっそりと声をかけてきた。
「チェーン店のルールにはずれたことですので、今回かぎりということで他の方にはご内密にお願いします」
「もちろんです」と答えながら、バッグを探って名刺を出した。
「お心遣い、本当にありがとうございました。また皆で来させていただきます」
彼の頭の中の作家一覧に私の名前も登録されていたのだろう、びっくりした顔でつかえつかえ彼は言った。
「ご本はかねがね読ませていただいています」
どの本を読んだかと聞いてその言葉が本当であるかお世辞であるかを確かめるような無粋なまねはせずに「それは、どうも」とだけ答えて私は店を出た。
ほろ酔いの頬に夜風が涼しかった。】
―こんなのが読みたかったんですがね。