2009-06-02

愛だ! 愛だよ!

そもそもWeb上のお笑い批評が痛いものとして捉えられがちなのは、それが主観的なものであるにもかかわらず、そのことに自覚的でないがために客観的なものであるかのように書かれてしまっているからではないだろうか?

本来批評客観性は必要ないはずだ。書き手の偏りさえ自覚的であり、それを表明さえしていれば、読み手はその偏りを含めて客観的に捉えることができ、それによってむしろその偏り自体が芸へと昇華されうるからだ。しかし、今のお笑いはそうではない。今お笑いを語る言葉はほとんどが無自覚的な主観に支配されている。本来存在しうるはずの客観的な立ち位置は隠蔽され、自らが大衆もしくはハイセンスなお笑い玄人(笑)であるという自意識によってその言葉は規定されている。そこにあるのは嗜好でもなく、好き嫌いでもなく、「お笑いがわかる/わからない」という謎すぎる概念だ。

客観的な偏りの表明を要求されない世界において、読解者にとってフラット言葉でありうる批評を書くために必要なものは、つまり、「愛」ではないだろうか? 一度、お笑いのすべて、芸のすべて、芸人のすべてに普遍的な愛を一度注ぐことによって、大雪が降った後の凸凹道のように、フラットな状態が出現しうるのではないだろうか。もちろんそれは見た目上のものであり、足を踏み入れればそこに凸凹があることはわかってしまう。しかし、凸凹道をあたかも平らな道であるかのように偽るのではなく、一度フラットな見た目を見せることによって、読者はそこにある凸凹=偏りを客観的に理解することができる。そしてそこからやっと、批評が始まるのだ。

そしてお笑い批評は、先に述べた主観性への認識の欠如のために、本来批評として成り立つために必要な前提をまだ得ていない。その前提は、「無知/無神経に対する恥の概念」だ。たとえば「中田ヤスタカ音楽ピコピコしているだけだ。だからクソだ」という者がいたら、彼はバカにされるだろう。しかし、ことお笑いについては「はんにゃの笑いは動きだけだ。だからクソだ」みたいな言論がまったく批判されることなくのうのうとしている(例にあげた固有名詞には特別な感情はない)。本来音楽お笑いも、自分にとって良ければいいはずのものだ。しかし前者に対しては語る言葉の質がある程度要求されるにもかかわらず、後者は言いたい放題だ。対象をめぐる言論の成熟の度合いは、つまりこういうところに現れるのではないだろうか。

この二つを克服し、主観性に自覚的な書き手がそのテクスト成熟させていったとき、ようやく真の意味Web上でのお笑い批評が成立するのではないだろうか。

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