2009-06-01

失恋は墓標のようなものだと思っている

もう4年前になる。初めてできた恋人と長い長い付き合いを経て別れるにいたったのは月が六月に変わろうとしているころだった。付き合い始めた時に180度変わったと思った景色は、別れる時にはほとんど動かなかった。毎日が以前と変わらずにやってきて、そのたびに現実に引き戻されて意味もなく落ち込んだ。あの1カ月か2か月をどうやって過ごしたのだろうか、記憶はほとんどない。ただ、息をしていただけだった。ただ毎日を歩いていただけだった。ただ、そこに存在していただけだった。

部屋の鍵を返しそびれていた。こっそり行き慣れたマンションに立ち寄って、ポストの前に立った時、これでもう金輪際元に戻ることはないのだと何度も自分で確かめて、それからゆっくりと投函した。かたんという音が静かな廊下に響いて思いのほか驚いたのを覚えている。

ずっと未来が続いて行くのだと思っていた。それ以外の道はないのだと思っていた。些細なすれ違いも言い争いも、長い長い喧嘩も、これからの人生の中では瞬きするほど些細なものだと信じて疑わなかった。ありきたりな約束をし、陳腐な言葉を交わし、くだらない仮定話に笑った。だから、別れ話のほとんどは沈黙だった。ただ二人、分かり合えないことを理解するためにその時間を要した。他人になっていくための時間が長く長く、必要だった。

あのころ自転車で走りながらいつも泣きそうだった。ともすればうつむき加減になりそうな気持ちをこらえて、わざと空を仰いでいた。鈍色の雲よりも雲間に見える青空の方がずっと目に焼き付いているのは、必死で前向きになろうとしていたからなのだろうか。悲しくなると風を切って自転車で走りだした。朝も昼も夜も、気が向けば自転車で走っていた。そうすることでしか日常と決別できなかった。そういう不器用なやり方しかできなかった。そういうところもよく笑われたものだと思いながら、毎日毎日走っていた。

それから2カ月して、彼が遠い街へ行くというので再び会うことになった。変わっていなかった。痩せてもいなかった。もともとやせ気味な人だったから、健康そうなことに安堵しながら、ぎこちなく歩いた。会話はあのころの様にははずまなかった。でも、心の中にあぁ、好きだったんだなぁという気持ちだけが残った。大好きだった。

短い食事をして別れるとき、彼はあのころのようにT字路で私の頭を撫でた。それきりだった。抱きしめられることもキスをすることもない。居心地の悪い距離と、ぎこちない遠さと、期待を残した近さと。

ずるい、と言いながらまた自転車で走った。

六月になるたびに、あのころの気持ちを思い出す。なにをしていても、どんなに浮かれた恋をしていても、ふっとあのころに引き戻される。それはもう突然に強い引力で、あのころの気持ちが私に覆いかぶさってくるのだ。

失恋とは墓標のようなものだと思っている。だから6月が来るたびに、涙が出るほど美しい季節が来るたびに自転車で走りだしたくなるのだ。あのころの二人に静かに祈りながら。あの時に失った何かに許しを請いながら。

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