2009-04-15

人の悲しみの、いや、自分の、か、id:finalvent氏の言い方を借りれば「悲しみの核」のようなものへの回路というのがあって、その開きかたみたいなのが、おぼろげながらみえるような感覚がある。とゆうか、そのおぼろげ具合が、段々に落とされてゆく、とゆうか。この回路の扱い方がよくわからない。勝手に他人のだったり、自分のだったりを開けてしまって、それこそ「鬱状態」のようなものに陥ることが割合に多い。ただ、どうもこの「鬱状態」は、決定的に自分が打ち砕かれて、こころ折れてしまうことを防ごうとする僕のからだのはたらきのようにも思える。そういう形でのサバイバルが、そうか、凡人の俺にはお似合いだな、と静かに思う。僕と俺とを分けた方が、気持ちいいんだけど、これを続けると危ないかもしれない、多分やめないだろうが。ブログは開いてるんだけど、その少ない読者に知り合いが多すぎて、こういうことが書きにくい感がある。もう一個つくるほうに流れてしまうのかな、ちょっと抵抗したいけどな。あと、もう増田だから、だらだら書くけど、ああ、増田に書くのは違うんだなって思う方の人間だったみたい、自分は。増田に疎外されてる感ってゆうか。

  • どうもこの「鬱状態」は、決定的に自分が打ち砕かれて、こころ折れてしまうことを防ごうとする僕のからだのはたらきのようにも思える。 何となく分かる気が。と、この分かり方が...

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