世に溢れる社会批判は、「この社会」の否定でしかないものが多い。
否定の真意は、別のあるべき社会の消極的な肯定である。
「こういう社会はダメで、こういう社会が良い」。そういう議論が多すぎる。
本来、社会批判をするということは、消極的な人間の肯定である。
それなら最初から人間を積極的に語れば良いんだけど、そういう視座を取る勇気はなかなか持てない。
それは非常に辛い作業で、その対価として得られる言説は、あまりに心許ないからだ。
心許ない言説を産み落とせないことの言い訳が、そのまま社会批判になっていることだって少なくない。
つまり僕は、この「辛さ」、「心許なさ」は、少なくとも人間的なものだと思っている。
人間を持ち出して社会を批判するのは古いとか新しいとか、構造的に有効だとか無効だとか、そういう問題でもない。
それらの話も全て、根本には人間を消極的に肯定することでしか成り立たない。
ある集団(たとえば「あるべき社会」)の代弁者となることは、責任の所在としての「自分」を必要としないことである。
しかし人間の代弁者となることは、その意味で「自分」を参照させずにはおかない。
なぜなら、人間の肯定は「自分」の価値の問題に直結するからだ。
価値の問題であるからには、何が正しいということは即座には見つからない。
しかし価値の問題と真剣に付き合えば、その人にとっての説得力の程度の差は、もう必ず出てくる。
価値の相対性を主張しているんではない。
その説得力は、ある価値を表明する言説が与えたのではなくて、自分がその言説に与えたものだからだ。
「価値の相対性なんかない」と思えるほどの説得力を持つ価値は、自分の中にしかない。
そしてその価値を見出すのは、真剣に付き合ってくれる書物を見つけられるかどうかにかかっている。
つまり、本を読め。
http://anond.hatelabo.jp/20081209135835
いえ、中二社会人です。
http://anond.hatelabo.jp/20081209145021
入門書って何のことかわからないけど、哲学・思想の入門書のことならそんなの読まない方が良いです。原典読む気あるならいいけど。
昨日の中二高校生か?
また入門書を読んでいない馬鹿がでたか