さっき、ちょっとお金を下ろしに行ったんですよ。
財布の中に二千円しかなくて、三十路を超えたサラリーマンがこれじゃあ、ちょっとやばいんじゃないかと。おちおち親父狩りにも遭えないじゃないかと。
まあ、ATMでお金を下ろすなんて、ほとんど手間もかからない、すぐにもう四十秒でリッチマンですよ。
それでですね、ATMのところに行ったら、俺の前におばさんがいたんです。おばさんですよおばさん、ちゃんとリスペクトして「さん」付けしてる、どこの誰とも知らない赤の他人のおばさんです。ところが、このおばさんが魔法使いだったんです、きっと。
そのおばさんがですね、ATMの機械の前に立ちます。そしたら何か複雑な手順で召喚の儀式を始めたじゃないですか。買い物袋をちょいと脇に置きます。中身が崩れないように丁寧に。そして手提げかばんを開けて中をごそごそと探しだします。あらかじめカードを出しておいてすぐ突っ込んだりしちゃあいけないんです。ATMはお金の出てくる魔法の箱ですよ。魔界につながってるに違いありません。前に立つと「カードヲイレテクダサイ」と声がするけど、あれは魔界からの声で、複雑な儀式の手順なしにカードを入れたら大変なことになるんです、きっと。
そして、おもむろにカードを入れたとこで、ぴたっと固まります。瞑想です。精神集中です。無我の境地です。もはや周囲の雑音などに邪魔されません。時間が止まっているかのようです。魔法を使うためには極度に気力を高めなければならないのです、きっと。
そして、手を静かにタッチパネルにかざします。高度に発展した科学はなんとやらと言いますが、あれはもはやマジックアイテムです。気とか念とかオーラとか、その類のものに反応しているに違いありません。手に力を集中させなければなりません。ハンドパワーです。不用意に触ると魔界に引き込まれるんです、きっと。
そして、厳かなリズムで入力していきます。決して、ちゃかちゃか慌しく入力をしてはいけません。瞑想をはさみつつ気合を入れて重厚に入力しなければ、魔界のものに舐められてしまうんです、きっと。
あにはからんや、これほどまでに儀式を行ったのに、魔法とは厳しいものです。「モウイチドハジメカラヤリナオシテクダサイ」おばさんは、またはじめからやり直します。不屈の精神がなければ魔法は使えないのです、きっと。
ところが今度は、比較的早く儀式が終了します。おばさんは、首をかしげながらその場を立ち去りました。深遠な魔法の世界は立ち去りました。やれやれ、ようやく自分の番だ。ささっと下ろして飯でも食うべえと機械の前に……
「本日の営業は終了しました」