自分が手に入れられなかった物を 酸っぱいブドウといってけなす。
それをみて、『手に入れられなかった』大多数が、あれは『酸っぱいブドウ』だと言い出す。
数の理論で、いつの間にか、『ブドウは酸っぱいという常識』が出来る。
物理的な現象ではなく、言葉の定義とか文化はこれが起きるから恐ろしい。
穴の空いたジーパンがいつの間にかカッコヨクなったり。
文化って本当に変わるよね。
という前置きの上で。学力というのは、記憶力と計算力と調査能力の総和的能力だと思う。
社交力が含まれないので 学者は偏屈とかそういう事も起きえるが、必ずしも真ではないのは、学力と社交力に関連がないから。
昨今大学が勉強の場所ではなく、就職のチケットとなりがちなので、そういう謝った解釈がなりたちつつあるが正しくない。
特に昨今の大学生は記憶力と計算力はあるけど調査能力がなさすぎ。
自分の人生をプロデュースするのは、自分の責任なので、大学に入って何をするか?というのは選択の自由ではあるわけですが。
せっかく金を払って入るのですから、大学の設備を使い倒して学力=自分で問題を見つけて、自分で回答を捜して説く能力=調査能力を向上させて欲しい物です。
何のために学校内に高設備とか施設とかがあったりするのか考えようよ!
大学を出たら答えのない問題を解いていく生活が待っているのに 答えは何ですか?と質問してくる奴が多すぎるよ。それこそ学力の中に含まれる探求力がなさ過ぎ。
IT系の大学卒業なのに、HelloWorld書くのが精一杯とか泣けてきます。
というわけで、日本で言う学力という事は 本来 学び取る力の事ですが、 いつのまにか、教えられたことを記憶する力に化け、それが転じて 奴隷になる能力の事を指しがちなのが現代の酸っぱいブドウかと思います。