2008-09-12

文は人なり

個人的なブログSNSでの日記などを読めば読むほど、対面コミュニケーションでは感じ取ることが出来なかった、あるいは見落としていた、その人の輪郭が見えてくることがある。

それは、取り上げる話題、それに対しての綴り方、またレスポンスなどの文面から伝わってくる。

使う言葉常用漢字以外のものや、カタカナアルファベット、絵文字という目にする文字からも伝わってくる。

文字の色、文字の大きさ、自分で撮影したとおぼしき写真映像、自分で探してきたYOUTUBEなどの引用からも。

誰かに自分のことを知ってほしい、つながっていたいという極めて原始的な欲求を前に、全能感を与えるかの錯覚を抱かせるこのツールは、これまで手にしたいかなる道具より、人間との関わりについて考えさせた。

何気ないひとことが忘れられないという経験は誰にでもあるだろう。対面の場では気にも留めなかったような事柄、ちょっと符に落ちなかったり、ムッとすることや、後から思い出してその思いやりに満ちた言葉の真意に感謝することなど感情はいくつも生まれる。だが、それらは対面の場では基本、記録するということはなされない。

文章を綴ること、それは紛れもない自分をさらけ出すこと。その事実に今更ながらおののく。

知人、友人の綴る言葉に、思ってもみなかったその人となりを発見することがある。それが良い方面の意外性だと、好意を持つが、その逆もまた多い。

日記という体裁をとっているが、公開しているかぎり誰かの目に留まることを全く意識していない人などいないだろう。「こんな日記、誰も読むわけない」という甘い認識から炎上騒ぎは起きるのだろう。勿論意図的に炎上する方向へ持っていくデマゴーグも少なくない。

また会ったこともない多くの人たちのブログ更新楽しみであったり、その人の書く文章に好感を抱いたりすることもある。

無限の場を提示しているブログ人民のアヘンとなったことは必至だったのだな。

知人、友人の日記をある程度の量をまとめて読むと、何もそのひとのことを知らなかったことに愕然とすることもある。

ブログを読んでその人を嫌いになってしまうこともあるのだろう。

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