『婚約者を亡くしてしまった』
そう言うなり、妹は声を上げて泣き出した。
婚約相手は大手企業に勤める背の高い好青年で、オーディオにプログラミングと趣味も多彩だった。
幾度か顔を合わせた事もある。話し上手で細かな気配りの利く、感じの良い男だった。
彼が帰宅中に対向車をかわしきれず帰らぬ人となった、その夜から、妹は部屋へ閉じこもりきりになった。
扉の前に置かれた食事にもほとんど手をつけない。時折すすり泣く声が聞こえては、その度ガリガリと床を引っ掻いている。
心配に思って"ガリガリ"の最中に声をかけてみた。すると「違うの」と答えが返る。
「違うって、何がだい」 「音が……違うの」 「音?」 「彼のは、もっと優しかった」 「優しいって?」 「……」
僕はゆっくりと部屋の扉を開けた。――幸い、妹からの拒絶はなかった。
彼女は手にiRiverのデジタルプレイヤーを携え、イヤホンを挿して音楽を聴いている。パテントフリー信奉者ご自慢のOggVorbis対応機だ。
「彼の音はこんなに固くなかった」俯いて彼女は言う。
ようやく飲み込めてきた。何時だったか、婚約相手の彼が『このコーデックこそは標準化されるべきなんです』と熱弁を振るった事がある。
妹はその話を退屈そうに横目で見やりつつ、彼のプレイヤーから伸びたヘッドホンで音楽を聴いていた。
彼女は今、そのコーデックの音を求めている。記憶の片隅に引っかかった規格の名前。あれは、確か――。
風の強い日だった。寒さから逃げるように駆け込んだアキバのヨドバシカメラで、売り場の店員に対応機種はないかと訊ねる。
彼は『幾つかございます』と言ってカタログを見せてくれた。どうせならと、婚約相手の彼が使っていたのと同じ物を選んだ。
「ほら、これだよ」そう言って、僕は妹にその音源を聴かせてやる。
「――あぁ!そう……これ……。彼の音がする――」彼女はこれが最後とばかり、一しきり大粒の涙を零して泣いた。
その日を境に、妹はみるみる活力を取り戻していった。今では食事も残さず食べている。完全に立ち直れる日も近いだろう。
OggVorbis?音が固いよ。もっとシンプルにいかなきゃ、愛だって語れない。
本当に愛しいものは、いつだってさりげない――Atrac3