個人的に、なかなか難しいと思っているのが、標記の考え方からの離脱。
いあ、何かものを見るときに、どこか自分の知ってるものにカテゴライズするってのは、脳が最初から持っている習性的なものなのだろうから、けど、だからこそ、根が深く難しい問題なんだと(自明の事なのに、今さら)、最近、追認させられることしきりって感じ。
物事ってのは、どんなものでもカテゴライズすることができるし、逆に、あらゆる物事をカテゴライズして、そのカテゴリーの中からの差異をいちいち見付ける方が楽。
カテゴライズする能力は、ものの概形を掴む能力とイコールで、だからこそその能力を持っていることは、物事の本質をつかむためのスキルと見られるし、そういう思考法ってのは合理的だと考えられているわけだよね。
でも、本当はそれって程度問題なわけで。
1を見て10を知る事ができるってのは素晴らしいし、便利。
それだけ労力を省くことができるし。
けど、ほんとにそれってできることなのかしら?
氷山の一角を見ているとして、その氷山は水中でクラックが入ってるかもしれない。
なんか、氷山を例に出したのはつくづく自分のセンスのなさを実感するほどの悪い例だけど、一部をみて、その全体像が見えていると思うのは幻想なんじゃないかしら?
いあ。
たしかに、最後の最後まで見つづけていって、結局、最初に組み入れたカテゴリーに入っていたなんていうのは、労力の無駄に思えるし、それこぞ見つづけたエネルギーを返せと感じるかもしれないけれど。
一部をみて、何かに当てはめて考えるのの度が過ぎると、単なる思考停止だし、思考の怠慢にほかならないんじゃないのかしらね?
水は低きに流れるだとか、性悪説だとか持ち出すまでもなく、生き物はすべからく労少ない選択をしがち。
というか、生物の遺伝子には須くそう書き込まれているんだとおもう。
エネルギーを費さない方向に、楽をする方向に、進化ってのは進んできたみたいだし。
カテゴライズする能力は必要だし、その能力に長ける人は、きっとできる人に分類されるんだと思うけど、人はその方向に生物的なバイアスがかかりやすいことを常に意識しながら、そちらの方向にはブレーキをかけつづけるくらいの方がミスリードを少なくできるし、思考の怠慢に陥らないんじゃないかな。
と、「段階の世代」とか「ゆとり」だとか「いまどきの若い(ry」とか言う典型的なそれが溢れる様を見ながら、自戒することしきりなのでした。
ま、これだけ自戒したとしても、なかなかうまくブレーキを踏めてないから、自戒の質に問題があるのか、自分のブレーキが壊れてるかなんだろうけども。
anond:20080624223251 生物はエントロピー増加に反して存在してない? 楽なほうを選ぶのなら多細胞になるはずないと思う。 (SFファンに批判されそう…)
だんだん死んでくんだから緩やかに増加はしてるだろう
ステレオタイプな考え方で止めておかないと色々生きづらくなるんだなこの国では。
カテゴライズするときにそれが何を表すのかはっきりさせとけばいいんじゃないかな ゆとりならこんな感じ ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E4%B8%96%E4%BB%A3 それで、これが間違っ...