投げ銭システムがうまくいかない理由は、それが面倒だからじゃない。「コンテンツ自体に価値がある」という考え方そのものが間違ってるからだ。あなたはコンテンツ流通の最小単位は「受け手」と「送り手」で、その中だけでシステムを完結させようと思っていないか?
料理人が「旬の食材」と「客」の仲介として機能するように、うp主は「コンテンツ素材」と「視聴者」との仲介であるべきだ。あなたがよく訓練されたはてなーなら、慣れないネットワークを歩くとき、その道に通じたidをsubscribe/favorite/followして頼りにしているはずだ。複雑なネットワークにおいて、コンテンツ流通システムの最小単位は「受け手」と「送り手」と「仲介者」。この三者がいて初めてシステムが成立する。
投げ銭とはネットワークの先にいる「誰か」への信頼をもとに、新たに接続される関係性への期待値を反映したものだ。先の例で言えば、subscribeやfavoriteでは対価が発生していないが、見方を変えれば有用な関係性を仲介している人はネットワークにつながる誰かの信頼を常に勝ち得ていることになる。ここまでの話を理解できた人なら、冴えた投げ銭システムの仕様を想像するのは簡単だろう。そう、コンテンツをすべて、派生元コンテンツへのアフィリエイトとして機能させればいい。
コンテンツへの投げ銭はうp主自身が受け取るのではなく、市場や外部の派生元登録システムを経由して派生元コンテンツへ転送される。超大作だろうがクソ動画だろうが、うp主は派生元へのリンクしか貼れないし、うp主の意図とは違う作品へのアフィリエイトとして使われる可能性もあるが、視聴者にとってはコンテンツの派生関係を見つける楽しみにつながるし、原作者にとっては二次創作が行われることは名誉であるばかりか、効率的な集金システムが自動生成されることを意味している。
ちなみに、これは新しい考えでも何でもない。たとえば書評は「面白い本」と「読者」の仲介だし、mixiの招待システムは、自分への信頼を担保にして「コミュニティ」と「友達」の仲介をするということ。自分が仲介であることを忘れて、くだらない本の紹介や最近の若いもの叩きを始めたら人が離れてくのも同じw