2008-01-31

ひとくくりにされると何故嫌なのか

「男だからそう」「女はこうだ」「オタクは皆そう」とか括られると、何はともあれやはりカチンとくる。

かといって「そんなことはない」とかいちいち反論することはなくなったが、「いやまあそう思う人もいるってだけだ」と自己を論理で納得させることもできるようになったが、しかしそれでもどうしても心の奥底の感情というのは消し去れぬもので、いまだ見ると稚拙な論であってもとりあえずムッとくるわけである

しかし何故嫌なのか?何故ムっとくるのか?

仮に「○○は皆××だ」といわれ、その○○という属性に自分が入っていて、且つ、自分で「自分は××ではない」と感じているなら、ムっとくる必要はないように思うのだ。単に「いや、自分は××ではないが…」となるだけの話、寧ろ自分の存在が反証理由にもなるくらいなのだ。

しかし自分はムっとくる。

なぜかと考えた。

「自分は××ではない」と思っているが、しかし、そこまでその事を自分自身信じきれていない、のではないか、それが原因なのではないか。「自分は××ではない!……多分」くらいの思いであるがゆえ、「××だ!」と他者に断言されると「そ、そんなことはない……はずだ……けど」と若干思いが揺らぐからなのかもしれない。

というか、更に、何故「自分は××ではない……たぶん……うんたぶん」と揺らぐことがムっとする原因になるかといえば、要するに、結局自分は「××である」事が嫌なのである。であるから「××だ」と言われれば「そうでない」とムッとするのだろう。単純に言えば「バカである」と言われれば誰だって嫌である。「鈴木(仮)という名字の奴は皆バカである」と言われたら鈴木(仮)である自分は「何だと。バカではないぞ」と思うわけである、やはり。

しかし実際には、このような「鈴木はバカ」くらい突拍子がなければほとんど腹など立たないわけだ。それは余りに突拍子が無く、全くこちらが納得しうるような根拠がないためだろう。逆に言えば腹が立つときというのは、ある程度こちらも納得できてしまいそうなそこそこの根拠があるからである。そこそこ筋が通った論で、しかも自分が嫌な属性に帰属するよう結論付けられるから、ムっとするのである。否定したいのである。突拍子が無さ過ぎればどうだっていいし、自分が好きな属性に帰属するよう言われれば別にまあそれはそれでわざわざ否定する気も起きない(鈴木は皆天才だ、と言われりゃ悪い気はしない)。

あるいは堂々と最後まで確実に主張しきれるほど、自分が自分自身の属性に自信を持っていれば、いくら他者が決め付けてこようが「我輩そうではない」とビシッと跳ね除けられようが、あいにくそこまで強くは無いのである自分は。

要するにまとめると「ちょっともしかしたらそうなのかもしれない……でもそうだとしたら自分は物凄く嫌だ」と思っている属性を他者から押し付けられるとカチンとくるわけである。こういう時下手に理論武装せず、「そうだとしたら、自分、嫌だかんな!」と開き直った方が、寧ろ冷静な気持ちでいられる。理論武装するというのはその本心を隠して戦うことだから、どうしても怯えがちになる。そこをつかれたらどうしよう、という気があるのだ。もうそれよりも素直にさらけ出してしまった方が逆に強い心持でいられたりする。

それと余りに言われると、B型はマイペースマイペースと言われ続けることで本当にそうなりがち、というような(こち亀にもあったなそういや)現象も起こりかねないから、やはり、嫌である。自分が嫌悪している属性だからこそ逆に意識しがちにもなるしあまり安易に決め付け語を言わないでほしいものだとつくづく思う。言うだけなら別に、と思うかもしれないが最近富に思うのは言葉というのは言霊だ、言葉にする、ということで、何らかの力を持つ(別に霊的な意味じゃなく)とつくづく感じる。影響を全く受けないなんていうのは無理だからこそ、自分に悪い影響が及びそうなものは極力関わりたくない……とかいいつつ今日どん意見があるかわからない増田に来てしまっている僕なのだが……

  • その言い方だと「自分は違うっつってるけど反発するって事は実際はそういう要素があると自分で認めてるんだろ」 的なもの言いを認める事になるような 「鈴木はバカ」も、何の根拠...

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