2007-12-19

どうですか、お客さん

其の零「虐められる側にも原因がある」

 "原因の追究"を途中で止めた結果陥る、典型的な錯誤である。理由がどうあれ、数ある選択肢の中からその行為を選択しているのは行為者自身。当然の事だが、虐める側が虐め以外の選択さえすれば、虐めは起こり得ないのである

 被行為者に自身の行為の原因を求めるのは行為者の甘え・責任転嫁でしかない。これは虐待差別嫌がらせ、暴行の他、思考、解釈、期待、信頼、妄想なども同じである

 この錯誤を主張する者は「虐めの原因」と「虐め発生以前に起きた他の事柄の原因」を混同していたり、原因(客観)と理由(主観)の区別すら付いてない事も多い

また加害者に上手く対処できない無能な教師が教育責任を放棄する際の論点ずらしとしても、しばしば使われる

 虐めの真の原因は唯一虐める側の慈愛心(包容力、想像力、表現力、忍耐、思いやり)の欠如に帰着する。つまり100%行為者(の心)に原因がある。第三者は行為者の言い訳を鵜呑みにしてはならない

其の一「学校を何度変わっても虐められる。これは虐められる側に原因がある証拠だ」

 この場合、本当の原因は「どの学校にも多様な個性を受け入れられず自己表現力に乏しい未熟者がいる事」である。「多数派は正しい」という誤謬を安易に盲信してはならない

其の二「虐められる側が変わったら虐めが止んだ。これは虐められる側に原因があった証拠だ」

 この場合、本当の原因は「虐める側に虐めたくなる理由・口実がなくなったこと」である。結局は行為者が変わらなければ行為は止まない。「被行為者が変われば行為を止める」というのは「自分が変わらずに済むための逃げ口上」でしかない

 これに類似した勘違いに「祈ったら病気が治った→祈ったことが治った原因」等がある。目に見える事象のみで物事の因果は測れない

其の三「虐めは人格に問題がある者を矯正する手段」

 人格矯正に必要なのは広く豊かな経験や知識であって虐めではない。寧ろ却って人間不信社会憎悪を増しかねず逆効果。この場合、矯正すべきは「虐め以外の手段を知らない」者の浅はかさである(躾と称した虐待体罰も同じ)

其の四「弱いから虐められる。強くなればいい」「この世は弱肉強食

 其の二と同じで、論点のすり替えである。虐め回避法として必ずしも間違いではないが、これによって虐めの原因が無くなる訳ではない。なお弱肉強食生物界の一側面に過ぎず、共生など異生物間ですら相互扶助している例は幾らでもある

其の五「周囲に不快感を与えたのだから虐められても仕方がない」

 感情に自己責任が取れない者の自己正当化である。不快感の原因はそれを感じる各人の固定観念であり自業自得。他人のせいにするのは筋違いである(虐められた不快感も同様。>1-3参照)

其の六「虐めは本能、必要悪

 本能とは呼吸・睡眠・摂食のように「生命維持に欠かせない行動」をいう。虐めてないと死ぬ人はいないので本能ではない。また必要悪とは自動車のように「危険性・環境負荷」を孕んでいても「利便性・経済効果」が上回るような事を言う

 これらの理屈は、虐める事で快楽を得る側の自己正当化に過ぎない

其の八「虐めは無くならない」

 いつの時代も「成長途中の人間」が存在する以上道理だが、それは「無くそうとしても無駄」という理屈にはならない

 多くの名も無き人々の不断の努力により人知れず無くなって(解決して)いる事例は幾らでもある。大きく報道されることだけが全てではない

其の九「虐めをしたら厳罰に処すればよい」

 飲酒運転と同じで、安易な厳罰化や一時的な対処は問題の陰湿化・冗長化を招くだけである。虐めは脳が未成熟な証拠。何らかのストレスが背景にある事も多いので、非難や制裁以前に監察や教育を施すべきである

其の十「虐められる側を助けるべき」

 緊急時なら間違いではないが、真に救うべきは”愛に飢えた”虐める側である。被害者を救う必要はない。加害者側を救えば被害者自動的に救われる。その事を無視して被害者のみを救おうとする行為は自己満足に他ならない

以上を読んでも尚「虐められる側にも原因が」と主張する人は、己の非(愛の欠如)を認めたくないか感情に自己責任が取れてないか、さもなくば読解力がないのである

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