定義には優劣がないとすると
社会をよくするという発想はないことになる。
しかしそういう発想は確実に存在する。
ゆえに前提がおかしく定義には優劣がある。
優れた定義とは何か。
人格者のいう定義である。
では人格者とは何か。
定義は社会に共有されるものなので
「俺が人格者だ」「いや俺だ」という
神学論争が消える。
そもそも神学論争を消さなければ社会は
前進しないのでこれは必須。
ではプロセスとはいかにあるべきか。そもそも
プロセスは単線的に決まるのではなく、
社会の中で生成される
これは言語文法が最初からあったわけではないのと
同じだ
プロセスもまた同じである
発展させようという性質があり
それがプロセスを発生させる
生まれた人格者の判断の積み重ねにより
発展する
そして他方で人格者は判断を積み重ねることで
よりよい定義を生み出し、悪い定義は消し、
そうやって定義が発展していく
それが一応でも良好妥当ならそれを
正義と思うしかない
そのシステムがあったが
アメリカに鞍替えして
接合させたのでガタガタになった
よい定義を追及するのを捨てたわけだ
定義群をメタ的に捨てた
アメリカというのはよりよい定義の発生しない国だが
そのアメリカ文化をどうにかくっつけようとして
すっころんだわけだ
いま日本が狂ってるのはこのせい
消化不良と言うか要はごっちゃにしたので
糖質になっている
政治は統一的でないと国内が混乱する
そこで政治を統一する必要がある
そこで生きてくるのがこの議論
で、ではプロセスはどこにあるかということ。
これを見つけ出すのが問題。
何ら定義をよりよくする契機がない(多数決が定義の優秀さを保障する理論がない)。
定義には優劣があるという基本命題に反してる時点で
民主主義は虚偽
民主主義の敗北が確認されたので、
みんなで議論して決めることの価値が否定された
ゆえにみんなで決めることは意味がない。
定義は何の意味も持たない。
やる必要はない。
そこで、増田は閉鎖すべきとなる。
申し訳ないが、見ててちょっと怖い。