正直なところ、先行きがとても不安だった。それは何も将来の進路や恋愛の行く末とか、そういうものに限らずに、今この時、自分が過ごしている時間のことだ。例えば、大学へ向かう満員電車の中、ぎゅうぎゅう詰めになって三十分以上の時間を無駄に費やしているときなんか、とくに考えてしまう。わたしは今、はたしていったい何をしているんだろうかって。こうして苦労して、汗だくになって大学へ行って、そこで講義を受けて、資格を手に入れるために勉強して。それでも結局はその資格がなんの役に立つのかもわからない。両親は、せっかく大学に行っているんだから、と言う。友人達は、取りあえず資格は取っておかなきゃ、と言う。なんだろう、資格資格って、取りあえずの気持ちで手に入れるべきものなんだろうか。そんな軽い気持ちで背負える程度のものなんだろうか。
よく漫画やドラマで、夢に向かって一所懸命になって頑張る主人公が描かれていたりする。バスケやサッカーとか、スポーツの選手にとどまらず、役者とか、歌手とか、そういうのを目指す登場人物達を見ると、なんとも居た堪れない気持になる。物語の中の彼らは、毎日それに向かって、汗を流して、泣いたりして、笑ったりして、一歩ずつ、前へ進んで日々を過ごしている。満員電車の中で痴漢に気を付けながら、すし詰め状態で汗だくのわたしとは大違い。
別に将来のことに悩んでいるわけじゃなくて、別にわたしにだって夢とか目標くらいはある。ぜんぜん大したものじゃないんだけれど。けれど、でも、それだけに、ああ、わたしは毎日、いったい何やってるんだろうなぁ、という気持ちに、それこそ押しつぶされてしまいそうになる。先行き不安というか、お先真っ暗なんだ。今、必死になってノートにメモを取っているこの講義の内容が、いったいわたしの人生でなんの役に立つというのだろう。きっとこれは、なんの役にも立たなくて、今この時間は、無駄にわたしの中で消費されていくだけなのだ。
それなのに、わたしはノートに向かってくだらない内容を書き続けるしかない。もう、どうしようもなく、そういう生活なのだ。精一杯の抵抗といえば、講義の間によだれを垂らして寝てやることくらい。
わたしの周囲には、大失恋した友人とか、片親を亡くした友人とか、それはもうドラマティックな人生を歩んで、苦しんでいる子たちがいる。
それに比べると、わたしのこの悩みなんか、ものすごく些細なものなんだろう。けれど、ささやかすぎて、小さなものだからこそ、誰にも伝えられずに、心の片隅でじっくりと広がるように、それはちくちくと痛みを発しているものなのかもしれない。
わたしはたぶん、毎日焦っているのだろう。講義の帰り、久し振りに友達とカラオケで騒いでから帰路に着いたら、とたんに虚しさと後悔が湧いて出てきた。いったいわたしは何をやっているんだ。馬鹿みたいに歌ってはしゃいで、何時間も無駄にして。そんな暇があるなら、今この日常から抜け出すための努力をするべきなんじゃないか。
けど、だって、どうしたらいいだろう。大学を辞めて、料理学校に行くべきだろうか。どうやって両親を説得する? 学校に行くための費用は?
考えると、無性に腹立たしい。自分が馬鹿にしか思えない。こんなふうに遊ぶ暇があるなら、前に進む為の方法を考えればいいのに。また無駄な時間を使ってる。人生だって、限られてるのに。
駅からとぼとぼ駐輪場まで歩いたところで、もう我慢の限界だった。なんというか、このくだらない焦燥感を誰かに聞いてほしくって仕方がない。そんなわたしの心境を遠くのどこかで察してくれたわけでもないだろうけれど、タイミングよろしく携帯電話が鳴った。サークルの先輩からだった。面倒見の良い彼女なので、わたしは挨拶もそこそこに、ここ最近の焦りを、長々と彼女に伝えた。もはや愚痴のようなもので、別に話を聞いてくれればそれでよかった。
「甥がね、去年産まれたと話したでしょう」
話を聞き終えると、彼女は突然そんなことを言った。自転車を押しながら、わたしは曖昧に頷くしかない。
「最初はたまに泣いて、ただ寝てるだけなのに、いつの間にか、笑ったり泣いたりを繰り返すの」
「はぁ」
「そうしている内に、あっという間に寝返りを打つようになって。それに驚いているのもつかの間、はいはいができるようになる」
それはそれは可愛らしい甥っ子さんですね、と嫌味をこめて言いたくなってしまった。と、先輩はわたしの機嫌を察したように、
「要するに、人間ってね、嫌でも成長しちゃうってこと。どんなにだらだら過ごして、それを後悔して生き続けても、生きている限りは、なんだかんだで前に進んじゃう。勝手にね」
「そんなものですか」
「そうよ。別に悩もうが後悔しようが、あなたの自由だけれど、 成長しない人間なんていないんだから。前向きに考えたら、悩むことも、後悔することも、成長の過程でしょう」
「うわぁ、ポジティブですねぇ」
「は?」
「もうね、あとは下るだけ。そりゃ、寄り道したり、多少、スピードを落とすときとか、速めるときとか、それくらいの微調整はできるんだけど、結局は、死んじゃうまで下り続けるしかないの。人間って、進み続ける生き物なんだな。歳をとるってそういうことでしょう」
「けど、なんにもしないまま、ずぅーっと坂を下って、途中で車にぶつかって、死んじゃって終わり、とか、なりません? わたし、そのタイプだなぁ」
「気合で避けなさいよ」先輩は笑って言った。「ただまっすぐ坂を下るだけでも、周囲の景色は見えるでしょ」
それから話題はいつの間にか変わって、サークルの話に移っていた。先輩は話上手だから、人を笑わせるのがうまい。気付けば、電話に出たときには溜息をこぼして俯いていたわたしは、夜の道でくすくすと笑っていた。
電話を終えて、自転車に乗り、少し涼しくなった夏の風を浴びながら、道を走る。
角を曲がれば、そろそろ下り坂だ。
あまり人気のない通りは、ひどく暗くて、ひっそりとしている。周囲には何も見えない。
途中、おまわりさんが立っていて、「ライトを点けてくださーい」と、間延びした声で言われた。応じて、わたしも、はーい、と応える。
足を蹴り上げてライトを点けると、少しだけ自転車のギアが重くなった。
わたしの向かう道、なだらかな下り坂の先を、柔らかい光が薄らと照らし出していた。
*
暇だったのでついやってしまった。後悔はしていない。