偏見は、なかなか気付けないよ。自分自身に対する偏見も、ダレカに対する偏見も。
誰もが皆、特定のダレカに対して特定の何らかの偏見を持っているし、そうでなければ特定のダレカに対するコミュニケーションが成立しない。けれども、ダレカが何を偏見であると思っていて、何を自分自身であると考えているのか、わからない。自分自身に対する偏見も、それがどんな偏見なのかわからない。何が事実なのか定義されていないから。
「自分はあなたに対してこういう偏見がありますよ」は、もしもあなたが、自分は「こういう」モノでないと考えているのであれば、「あなたはあなたがこういうモノでないという偏見がありますよ」とも言い換えられる。どちらが正しいのかは、どちらの偏見をより正しいものと設定するかによる。
偏見に満ちた言動や態度っていうのが一番頭に来る。 私は、というか誰でもそうだと思うけど、しばらく一緒に過ごすと、誰がどういう偏見で自分を見てるかわかってくるんですよね。 ...
偏見は、なかなか気付けないよ。自分自身に対する偏見も、ダレカに対する偏見も。 誰もが皆、特定のダレカに対して特定の何らかの偏見を持っているし、そうでなければ特定のダレカ...
http://anond.hatelabo.jp/20070817184930 自分の考えを「偏見」だなんて思ってる人は普通いませんよ。 アナタから見たら偏見かもしれないけど、その当人にとってはまっとうな考え。 「これ...
「自分の考えは偏見ではない」と信じている人は相当な馬鹿だと思うよ。 たいていの人は「自分の考えが偏見かどうかわからない」でしょ。
いや、「偏見だと分かっていてもどうしてもその見方を変えられない、変えたくない事」ってあるでしょ。 たとえば、私は売春婦を見下すのは偏見だと思ってるけど、とりあえずの見方...
例え、偏見に凝り固まった考え方でも、その人の“常識”になった途端、偏見ではなくなる。 勇午のインド編を思いだしたよ。 とらわれの身になった勇午が、インドのエリート大出身...