人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。
昨今の上記のような期待感は重々承知しております。が、科学のルールや科学で説明できる範囲に従えば、「なぜ自分がこのような目にあうのか」は科学の守備範囲外であり、そこに宗教が入り込んでくる隙があると述べたかったのです。また、科学にそれを求めても求める先が違いますよ、ということも。
もうすこしつっこんでいえば、そこに宗教が入り込んできたとしてもそこで得られる満足感は信じることで得られるプラシーボ的なもの(だって科学的に説明がつかないのですから)で、その宗教を信じる個人や集団のなかでは真であっても、その宗教を信じない人(々)にとっては偽である。
科学では説明がつかない、科学の守備範囲外の部分を説明する方便として宗教はある人にとっては必要になってくるかもしれませんが、私に限って言えば、まだそれほど人生に絶望していませんし、29日には投票に行くつもりです。
科学を突き詰めていくと、科学で説明できることとできないことがあることに気づき、そこに宗教が入り込む隙が生じる。
「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 科学は、どうしてその事態の原因と結果を説明することは...
「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 この部分がよくわからない。
人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。でも科学ができることというのは増...
人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。 昨今の上記のような期待感は重...
原因と結果というものはなく、結果とは原因の特殊な状態であり、そのあとにはまたあらたな結果が続いてゆく。