「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。
科学は、どうしてその事態の原因と結果を説明することはできるが、なぜその事態がそのように作用するようにもたらされたのか説明できない。病気の/事故の/なにがしかの不幸の原因を説明することはできるけれど、その病気の/事故の/なにがしかの不幸の原因がなぜ「あのひと」には降りかからず、「このわたし」に降りかかってくるかを説明できない。
また科学は、この世の中がどのように成り立っているかを説明しうるが、どうしてそうのように成り立ったかは説明できない(「なんで」ビックバンが始まったか、とかね)。
科学を突き詰めていくと、科学で説明できることとできないことがあることに気づき、そこに宗教が入り込む隙が生じる。
「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 科学は、どうしてその事態の原因と結果を説明することは...
原因と結果というものはなく、結果とは原因の特殊な状態であり、そのあとにはまたあらたな結果が続いてゆく。
「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 この部分がよくわからない。
人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。でも科学ができることというのは増...
人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。 昨今の上記のような期待感は重...