2007-07-21

メディアサイエンス考察

  • 前提:マスメディアにおいては、大衆向けニュースとは単純化、断定化、誇大化、飾り立ての作業である。複雑なもの、曖昧なもの、矮小なもの、地味なものは人気を博さず、故に常に最大多数者を狙う「マス」メディアには向かない。
  • 小泉首相田中真紀子:彼(/彼女)らは中身の伴っているかどうかも危うい、見出しのような言葉を使う(「感動した!」とかね。キワモノだと「疑惑の総合商社」なんてのもあったね)。故にメディアはこれらをそのまま利用することが可能であり(ニュース記者っていうのは時間に追われて、意外に大変なのです。何かあったら一斉に原稿書いて、我先にと自社に送るというアホな合戦をしているのです)、彼らの発言、意見を殆どそのまま利用してしまう。
  • 失言議員ら:彼(/彼女)らはそのまま使うには困難な、編集を必要とする言葉を使うが、しかし多少でも差別的に捉えることの可能な言葉があれば、それを中心として記事を書き上げることが可能であり(現代ではニュースとは単純化の作業だし、難解なものを単純化して纏めるよりも、言葉尻捉えて非難する方が楽なのです。世界で最も偉大な演説家の一人であられたヒットラー御大も、その手法を「単純なものを、何度も繰り返し」と仰っています)、それゆえ彼らを批判する。

故に、ニュースだけから何かを判断することは出来ない。現代のニュースは知るためのきっかけにしかならず、それ自身知識として誇れるようなものでは断じてないどころか、それのみを知ることは場合によっては害悪にさえなりかねない。しかし、それをしない、出来ない(する時間がない)人間はあまりにも多く、故に判断をニュースに委ねる。委ねているうちに、次第にマスコミの判断を自己の判断と思いこむようになる。更には、初期の意見形成はその後の見解に大きくかかわるものであり、意見を変更することはより稀となる。従ってマスメディアは単純な宣伝のみならず、世論形成において絶大な権力を有するに至る。

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