2007-07-02

きみにしか聞こえない」の感想

土曜日に「きみにしか聞こえない」を観にいったので感想を垂れ流しておこう。

ほとんど話題にもなっていないらしく、上映する映画館が少なくて観に行くのが大変だった。この映画を上映するのを知ったのも公開一週前くらいの○○ウォーカーだった。ぼくは原作を読んでいて、彼女にも最近その本を貸していて、一緒に観に行くことにした。

映画の出来はかなり良くて、次の日の「カリブの海賊世界の果て」とあわせて幸福映画体験だったのだけど、同時に映画、あるいは映像限界を感じてしまった。というとちょっと大げさかもしれない。映像と活字の表現領域には違いがある、という至極無難な表現にしておこう。

原作の「きみにしか聞こえない」でもそうなのだけれど、乙一は「ふつうの人の孤独」を描くのがすごくうまい。要領が悪かったり、馬鹿正直だったり、世の中を生きていくのには窮屈な思いをしているのだろうけど、ふつうの枠内にぎりぎり収まっている彼、彼女らはその実、芯がつよい。決して世の中に絶望したりせず、ただうすぼんやりとした不安を抱えながら生きている。そしてそれは、かつてのぼくであり、あなただ。

だけどこれは、映像では表現し得ないことなのだろうと思う。だから映画でのリョウはクラス内で嘲笑される存在になっているし、人間関係を厭い、怖れ、その象徴としてピアノを忌避している。そして、シンヤは聾唖者という設定に変えられ、二人ともわかりやすい「弱者」として設定されている。そして、リョウはシンヤとの係わり合いの中で、映画の中の時間軸上で、自分を取り戻し、あるいは過去の自分と決別する。それはそれで劇的で感動的ではあるけれど、そこにふつうの人が入り込む余地はない。

いろいろと書いたけれど、映像には映像の、活字には活字の、それぞれの面白さがあって映画きみにしか聞こえない」では映像でしか描き得ない表現をみることができたと思う。

注:この文中の乙一は、改蔵が提唱するところのA面/B面におけるA面、つまり乙一(A)です。

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