すこし前に大阪で起きた事件。ある男が「ストレスがたまり、むしゃくしゃした」と突然3歳の子供を歩道橋の上から放り投げた事件を見て思ったこと。
数年前の自分なら「ありえねー。怖ひー(笑」と全く自分とは関係が無い事件と思ってまあ適当に感じていたのだろうが、今現在の自分としては少し身近に感じ恐怖にかられている。と言っても、自分に子供が出来てピチガイ怖いと言っているのではない。自分が事件を起こした男と同じようなことをするのではないかという恐怖に。
若い時の自分は通常の時の自分とイライラしている自分もどちらも同じ1人の人間として同じ自分と感じていたが、ある事をきっかけにしてから、色々な感情の時の各々の自分が違う人間なんじゃないかと思えるようになってしまった。特にイライラしている時が。不機嫌な状態で不愉快なものを見た時、自分を制御出来ない感覚が。以前、一回ブチ切れして壁を殴って穴をあけた事があるのだが、それ以来一旦開けてしまった扉は以降は開けやすくなってしまったようである。
そんなんだから自分がこの事件のような事をしないと言える自信は、以前は「ねーよwwwww」みたいな感じだったのが、今は「無いと思う」ぐらいか。そしてその差から未来を想像すると・・・。特に今の自分の不満な状態のまま年を重ねると確実に悪化の一途を辿る道しか見えない。
別に今の自分はなりたくてなったわけじゃないし、むしろなりたくないのになってしまったといった感じである。そして当然そうじゃなくなりたいと思っている。というか、ならないと思っていたらいつの間にかそんなふうになってしまっていた。な… 何を言ってるのか わからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった…。頭がどうにかなりそうだった…。催眠術だとか超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…。
って違う。いつの間にかそうなっていた自分だが、「手に持っている鞄を1回転してから明後日の方向へ投げ飛ばしたい」とか「前の人の背中を蹴り飛ばしたい」とか「あああああ!!と言ってデパートのショーウィンドウのガラスを殴りたい」といった衝動を抑えている。それは何故かというと色々あるのだが、しかしそれらは年々削られているみたいな感じ。少しづつ枷が外されて最後に枷がなくなり精神が自由にばった時に、この事件みたいなことを起こすのだろうか。今はそんなのは嫌だと思えるが、そう思えなくなり「もうどうにでもなれ」と思ってしまったらと考えると怖くなる。
枷が欲しい。自分の精神に枷をはめたい。この開放されていく精神を重く縛り付けたい。けど、まわりの普通の人は増えているみたいですよ?。自分にも欲しい。
なんか、アホみたいな文章になってしまった。とりあえず、病院には行っている。宗教は最後の手段。
今の自分の未来を想像することで、何故40代未婚の男性が不審人物になるのかが良くわかった。だけど、不審人物だからと言って速攻排除するのも難しい。良く「死を覚悟している人は強い」と言われるが、この強さが負の方向で発揮されちゃうと社会ってとんでもないことになっちゃうので、上手くコントロールしないといけない訳で。まあ、将来自分がコントロールする側なのかされる側なのかわからんが。
http://anond.hatelabo.jp/20070121014820 これはわかる気がしました。 僕の場合は逆で、物がわかってなかった子どもの時に、「枷が欲しい」と考えた時期がありました。衝動というよりも、害意や憎