2010-08-29

「あの女」

 俺にとって母は「母さん」でもなく、「お袋」でもない。

「あの女」

 であり、

「あの畜生

 である。

 俺は両親ともに虐待されたわけではない。むしろ甘やかされた方かもしれない。

 俺は中年と呼ばれる年代の男だ。妻はいるが子はない。

 しかし、あれは俺が小学生のころだった。

 その夜は風が強かったのを覚えている。

 今思えば、原因は色々あったんだろう。

 夫である父はあまり家にいない人だった。事業を興したばっかりで、忙しかった頃なのだろう。

 俺も母も近所にはあまり友人がいなかった。

 親戚との付き合いも希薄だった。

 孤独だったんだろう。

 そして俺は、そんな環境のせいか、いわゆる

問題児

 だった。

 その日も母は学校に呼び出されていた、様に思う。

 その夜、窓の外に強風が荒れ狂う夜、「あの女」は恐ろしい形相で俺に言った。

「一緒に死のう」

 俺は死にたくなかった。

 どう言えば逆上されないか。

 どういえば殺されないか。

 必死に考えた。

 あの時の恐怖は忘れられない。

「死にたくない」

 そう言って、その場はどうにか切り抜けた。

 あれから30年。家の中で一回もそのことには振れたことはなかった。

 多分、「あの女」は忘れているんだろう。

 しかし、俺は忘れたことはなかった。

 当たり前だ。

 殺されそうになったことを忘れる馬鹿はいない。

「あの女」は俺を殺そうとした。

 ずっとそのことが心の奥底に、澱のように沈んでいる。

 時々、寝る前に暗い天井を見ながら思い出し、怒りで眠れなくなることがある。

「あの畜生」早く死ねば良いのに、と思う。

 いや、許されるのなら自分の手で殺したい。

 勝手に生んでおきながら、殺そうとした。

 その身勝手さ。

畜生」としか言い様がない。

 憎い。

 いくら憎んでも飽き足らない。

 多分、一生許せないだろう。

 俺は死ぬまで、「あの女」への殺意を感じながら行きていくのだろう。

 死ね畜生

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