っていうけど、実際それはある程度はその通りなんだろうけどさ。
あの、野球場に行ったら、すげーいっぱい人がいて、その中の一人でしかないという自分のちっぽけさに愕然として、しかもあんなにいっぱいいた野球場の人のさらに何千倍何万倍もの人間が日本にはいて、世界にはもっと……って考えてどうこうってやつ。
あれって結構簡単に皆「よくある中二病」みたいに片付けてるけど
実は根の深い問題というか
ほとんど現代の人間の究極的な問題じゃないかと思う。
というか、だからこそ、答えが出ないから、皆「便宜的に」考えるのをやめるだけなんじゃないだろうか
中二病wとかいって簡単に茶化すけど、実は結構根が深い問題が多い。
だからこそ若い時に悩むし、大人になって「そんな事考えてる暇がない」「考えてても飯が食えない」となったときに捨てだす。要するに「成長したから」「もう解決したから」「そんな問題はなんてことないことが分かったから」とかいうより、単に「便宜的に」忘れた、あるいは忘れようとしているだけ。
こういったある種の哲学的問いは、無意味だとか、生活に役立たないとか言われるけど
確かに哲学的問いを考えていればホカホカのご飯がたけるわけではないが
別にうんこをすればホカホカのご飯がたけるわけでもない。
実生活に役立つことはなにもご飯だけじゃないってこと
うんこも必要だし
でも必要のベクトルが違うから、他の「必要」では他の「必要」を埋められないだけで。
哲学的問いはそういった別の意味で飯と同時に「必要」で実生活に直結していると考える。
でも本当難しいよね
なんで俺は特別じゃないのかってさ
こんだけ人がいるとアイデンティティも結構容赦なく揺らぐし
何をしたって代わりはいるし、承認欲と承認される条件とそれを満たすことの追いかけっこをずっと続けなきゃいけないのか
それでしか埋められないのか
といえばそれは違う気はするがだからといってどうするのか。
あのシーンを見ると、ハルヒのキャラだけは上手く書けてるよなーとか思った。 自分とその周囲を漠然かつ自然に固有の価値があるものだと思ってたら、野球場にはたくさん人がいて、...
当人の自由責任だ とか言っていたgokiburiのことですね。
どいつもこいつもそこはアレな決め付けで語ってるようだが。