2007-03-25

作者・作品・読者の狭間で何を思う

http://anond.hatelabo.jp/20070325173918

話にならないよ。id:amiyoshida氏はハッキリと述べてないけれど、『自分の主張に「利用」する』ように受け取る感性があまりに残念。それこそ、あなたのいう「愛」を疑う。

誰かの主張を代弁するために創られたものではありません。

これも分かってない。漫画には生きた作者というものがいて、漫画のコマやセリフや描写は、その作者をとおして生まれるもの。そこに思想や主張があるのは当然で、生身の読者が心をうたれるのも当然。これは「代弁」ではなく「共感」という現象です。お間違いなく。

この「共感」というのは、物語を読む上での推進力にもなるし、作者への信頼性を生み出すこともある。その「共感」し得たコマ(つまりid:amiyoshida氏の心の集約点)を伝え、他者に開いていくことの何がいけないのか。それが作品(あるいは作者)への愛であると同時にid:amishiro氏の表現でもあることを、なぜ理解できないのか。

あらゆる創作物は作者の手を離れたら(ある意味において)受け手側のものであると言えます。

ある意味どころか、絶対的に受け手のもの。物語を頭の中に構築していくのが読者である限り、作者の介入などありえない。上で述べてきた作者とは、読者の偶像であって、思想や表現の主(ぬし)として内的対話の拠り所としているに過ぎない。「共感」は、そういった対話を経て生じた現象。その集約点をコマ単位で選びだして発信していくというのは、紛れもなく「その作品の読者としてのid:amiyoshida自身」を伝えることなの。作品を伝えるとは、読者としての自身を伝えるということなの。作品を読むってことがどういうことなのか、もうちっと考えてほしい。

蛇足だけど、

漫画のコマを文脈から切り離して

これが分かっていればOKなんよ。誰だってあのコマだけ本屋に売られてるなんて思わない。それが切りとられたもので、全体の一部なんだっていう約束事が共有されてるから、引用手法というものが成立するんでしょ。ご丁寧に作品名を提示しているid:amiyoshida氏の表現は、何ら問題ないじゃない。

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070325/1174815274

[追記]増田→非増田

増田と吉田のマンガ引用論議について

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