はてなキーワード: カラマーゾフの兄弟とは
ひぐらしはやってない&読んでないのでわかんない。
『蹴りたい背中』と『ノルウェイの森』はストレートにリアルなものを感じたかというとそうでもないけど、あるものをリアルだと感じた作者の手触りみたいなものは伝わってきた。『こころ』と『カラマーゾフの兄弟』はリアルだった。
現実的、ということは「リアル」とは違うし、「いままさにありそうなこと」が「リアル」なわけでもないと思う。時と場所を剥いでも、何かを突きつけてくる作品がリアル、なんだと思うけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070812200016
>子どもはまず「リアル」という言葉の意味を知らない。「リアル」の元になる現実的な経験をしてない。
>そして「感動」という言葉の意味を知らない。現実に「感動」などしたことがない。
こういうようなことを言う大人がいうリアルや感動がニセモノだと感じられる感性こそが、
子どもは語彙が少ない。文章の型を知らない。
世界を切り分けて明確に細分化して把握することに長けていない。
しかし、だからといって現実的な体験をしていないわけではない。
感動など大人よりもしているといって過言ではない。
一回性の体験を一回性のものだと感じる感性は子供のほうが強いことが多い。
そのときそのときにいちいち心動かされる。
しかし、また、いちいちその違いを「言い分ける」「表現する」必要性を彼らは感じない。
仲間に「感動したね」という表出し「うん」と同意して貰えればそれでよい。
どういう「感動」なのかは、仲間といるその場の文脈から判断できるからだ。
「ワタシタチ」という世界を共有する彼らにはそれができる。
>子どもはまず「リアル」という言葉の意味を知らない。「リアル」の元になる現実的な経験をしてない。
>そして「感動」という言葉の意味を知らない。現実に「感動」などしたことがない。
などといいい放つ他者に説明をする必要を彼らは全く感じない。
仲間に「感動したね」と表明し「うん」と同意して貰えるリアルさが全てだ。
そんなものは感動ではない?そうだね、あなたは「ワタシタチ」ではないからね、以上。
「キミはこのお話感動できるよね?」という「ワタシタチに向けられたお話」に「うん」と応答することが彼らのリアルであり、
「ワタシタチのものでない言葉」やそれを使う人なんて理解する必要なんてないよね、という感性こそが彼らのリアルなのだ。
僕は無宗教だけど趣味で老子や聖書を読むので宗教の話は色々盛り上がってた。
エホバの子は異様に教会という場所を恐れてるのが印象的だった。
デートの最後は教会に行ってお祈り(僕はしない)とか、教会主催のボランティア活動とか。
双方に言えることは二人ともとても生き生きしてる。
人並みに悩みを抱えてるんだけど、聖書の一章節に救いを見つけ出してる。
それが正しいか間違いは宗教ではなく自分自身の選択によるものだから、そこから生まれる悩みなんかとも戦ってる感じ。
宗教的な理由で婚前セックスはできなかったんだが、それがない熱い恋愛もあるんだなあって。
僕自身の考え方は「人が神を作った」の一言、だから聖書も最古の書物として読むしどの宗教にも入らない。
彼女達はそれを理解してくれて、だからこそ僕みたいな男に興味を持ってくれたのだと思う。
宗教は否定しない、人は信じるものがあるからこそ強く生きていける。
人が集まることで生まれる孤独に耐えなければならない社会、宗教はその隙間を埋めるようなものだ。
信じるものは救われた気分になれる。