私の好きな漫画の一つ「左ききのエレン(原作版)」が、現在無料で公開されている。
好きだと言いつつもこれまで無料で読める範囲でしか読んでおらず、飛び飛びになっていた部分もあったので、一気に読み返してみた。
連載開始が2016年。5年超の期間、170話以上(第2部であるHYPE含む)の内容を、全く淀みなくストーリーを展開できる作者のかっぴーさんは本当にすごい。
ただし、作者さんが願う「もっと作品が売れてほしい、多くの人に読んでほしい」を実現するには物足りないところがいくつか見えてきたので、匿名で書きなぐっておこうと思う。
その前に、この「左ききのエレン」はどういう漫画かというと…
美大卒で広告代理店に務める主人公・朝倉光一と、高校の同級生で世界的な画家となった山岸エレンが、互いに影響を与えたり与えなかったりする物語。
キャッチコピーは、「天才になれなかった全ての人へ」。
…なのだが、多くの読者の支持を得るにはいささか物足りない部分がいくつかあるので、挙げていく。
(以下ネタバレ含む)
例えば、近年巷にあふれる、なろう系小説。
現実世界ではイマイチだった主人公が、異世界転生したら色々無双し、女にもモテる、ってなストーリー。
その主人公には、明確な「属性」、すなわち異世界で有能たる「理由」が与えられる。
地球よりも重力が弱いとか、ブラック企業勤めで激務への耐性があるとか、なんかのレベルがいつの間にか99になってたり等々。
翻って本作「左ききのエレン」にはそういうものはなく、主人公の光一は美大を出て広告代理店に就職という、なかなかの難関をくぐり抜けているが、広告賞には縁遠く、イマイチな社員として描かれている。
それなのに、世界的な画家、トップモデル、写真家といった面々と一緒に仕事をし、絵描き相手には自分のイマイチな絵で挑発してみたり、モデル相手にはファッションショーの場をグダグダでまとめきれなかったり、写真家相手には世紀の一枚を台無しにしたり、いまいち間が悪いムーブを繰り出しているにもかかわらず、なぜか気に入られて関係が発展していく。
あと、なぜか女にモテる。このへんはあまり詳しくないので置いておくとして。
正直、私の拙い読解力では、主人公の属性は「普通」「圧倒的な間の悪さ」くらいしか読み取れない。
これでは読者は「読者が送る、つまらない日常を肯定するメッセージ」も「主人公が読者と圧倒的に違う、これはフィクションなのだと納得できる材料」のどちらも得られないよなぁ…と思う。
(かと言って、主人公の光一は、作者のかっぴーさんが「広告代理店をやめなかった(仮定の)自分」と公言しているので、もしも主人公TUEEE展開をやられると、そのまま作者の俺SUGEE表現と受け取られ、ちょっと鼻につくかもしれないよなぁ…)
例えば「DEATH NOTE」「バクマン。」は、それぞれ作品の核は「ノートに名前を書く」「漫画を執筆する」という、絵的に地味なものである。
しかし、作者はその地味さを知った上で派手に見えるようにストーリー・作画上で様々な工夫をこらしていた。
「DEATH NOTE」ではノートの主導権の取り合いから生まれる心理戦をストーリーの主軸にしたり、「削除、削除ォ!」と派手な演出をしてみたり。
「バクマン。」では漫画作者同士のバトル要素を存分に膨らませたり。
翻って「左ききのエレン」の主人公・光一の仕事の多くは、社内調整とか地味な立ち回りが多い。
光一が最もカッコよく描かれていた場面は、クライアントの素直な意見を促して形にするという、これまた絵的に地味なもの。
「照らす側の仕事もあるんだよ」と言われれば聞こえはいいけど、地味な仕事を派手に見せるやりようはあるんじゃないかな…と思う。
作品序盤で、エレンが米国で記者会見をしていることから、彼女は世界的なアーティストになっていることを示唆している。
これを高校生の姿と同時に見せられたら、読者は「エレンが世界的アーティストになるまでの過程を示してくれるのだな」と期待するだろう。
だが、本作で示されるストーリーは、多くの読者が想像するであろう「絵を描き、それが評価され、また絵を描き、より『上』の世界で評価され、を繰り返していく」類のものではない。
ちなみに、作中でエレンが描いた作品として示されているのは、2つだけだ。
そのかわり、本作(のうちのエレンパート)ではエレンの「仲間との出会い」や「作品を通しての対話」に重きが置かれている。
そこには「仲間と出会ってこんな作品が生まれました」もなければ「他のアーティストの影響を受けてこんな作品が生まれました」もない。
「芸術とは対話である」と言うのもわからなくはないが、読者としては「絵」という見える形で通過点なり到達点なりを示してくれたほうが読みやすいのかもなぁ…と思う。
(同じ作者さんの漫画「アントレース」は節目ごとに作品(服)を、鮮やかなアイディアと共に示していて、凄いなぁと思ったけど、3巻で完結してしまった)
本作の主人公・光一は「天才でない存在」として徹底的に描かれている。
光一がもがきながら見つけた生き方は「照らす側の人生」。モデルにスポットライトを当てるような、太陽に対する月のような役回りである。
しかし、彼は才能に溢れる人達に囲まれ、運としか言いようのない人脈で今の地位を築いている。
本作には「どうすれば自分が照らすべき才能と出逢えるか」、あるいは「どうすれば天才と会ったチャンスを物にできるか」については描かれていない。
そんな状態で「照らす側の人生もいいぞ」と言われてもねぇ…という気分になってしまう。
また、本作では「才能とは集中力の質である」として集中力の質理論が展開される。
興味がある人は調べて読んでもらうとして、結論としては「集中力の特性の差に優劣はなく、それぞれ向いた仕事がある」といったものだ。
ただし、本理論は作品の本筋ではなく「主人公・光一が集中力の質理論を駆使して成功を勝ち取る!」などと安いビジネス書のような展開もない。
自分が天才ではないと自覚している読者のうち、集中力の質理論を学んでより良い仕事に活かしている人もいるかも知れないが、それは作品の主題ではなかろう。
「天才かもしれない人」と「天才になることを諦めきれない人」に向けてなら「本気出してそれから諦めろ」もいい。
「天才になれなかった全ての人」は、「左ききのエレン」をどう読み解けばよいのだろう?
私はまだ、この作品を掴みきれていないのかもしれない。