ケアラー家庭について語りたい。
大変さにもグラデーションがあっていろんな人が助かるといいなと思って語ります。
まず、ケアラー家庭とは家庭の中に要介護者がいて家庭崩壊してる家庭と勝手に定義しました。自分では機能不全家庭っていうのがしっくりくるけど流行りに乗ってみた。
▪️それまで
我が家は、両親と姉、自分、弟、弟の6人家族でだった。母親は専業主婦でミシンでカバンをつくる内職してた。父親は、昭和の猛烈サラリーマンでよく酒に酔っ払って深夜に帰ってきてから暴れてた。まだ、自分や1つしたの弟までは誕生日会や友達と家で遊ぶ余裕はあったと思う。おばーちゃんが来るまでは。
▪️おばーちゃんが倒れた。
今から25年前、自分が小学六年生の夏におばーちゃんが(父方の祖母)が脳卒中で倒れた。
その夏は、子供だけですごしたり母方の祖母が来てくれた。父親は、仕事と田舎を行ったり来たりで家庭のことは高校生の姉に任せていたと思う。おばーちゃんの容態が落ち着いて一度おばーちゃんの入院している病院に行けることになった。
母親は病院で泊まり込みで介護をしてるようだった。子育てできないと申し訳ないと思ったのかお父さんに内緒だと言ってゲームセンターで遊んでおいでといっぱいお小遣いくれた。
▪️おばーちゃんが家に来る
それから程なくして、田舎からおばーちゃんを引き取って自宅で介護することになった。正しくは、説明もなく父親が決めた。
それから、家のリフォームをしリビングに介護ベッドを置いて、おばーちゃんがやってきて在宅介護が始まった。おばーちゃんは、左手半身不随で車椅子生活、言葉は喋れず、認知症も進み、ワーワー言ってた。要介護5です。
世の中がこれからは介護自体がくるぞと騒がれ始めた時だったので訪問介護も一時預かりする場所もないかった。
すぐに、一人介護の母親と父親の間で夫婦喧嘩が絶えなくなった。まぁ、これはその前からそう。
父親は週末におばーちゃんちによく行かようになった。なんでかはよく分からんかった。
介護は母親が一人でやっていた。
親父は仕事で帰ってこず、週末は田舎へ。
たまに帰ってくると介護の仕方が悪いと夫婦喧嘩していた。
おばーちゃんのおむつ交換の時はうんこのにおいが部屋中に充満した。その中カレーを食うことになんともおもわなくなった。
そういえば、家に金をおいて母親が2、3回家出したことを覚えている。
盆と正月は、田舎にばーちゃんを連れて帰るんだと夫婦喧嘩してたな。
旅行や家族のイベントもほぼ無くなった。
小学生で兄弟同じ日に問題を起こしたし、中学受験にも失敗した。正直、その頃から人生どうでもよかったんだと思う。あまり記憶がない。
そのうち訪問介護や一時預かりができるようになり少し負担が減った。
友達やら学校のことは覚えてるけど家のことがやっぱり思い出せない。
そんなこんなで6年が過ぎおばーちゃんが死んだ。全然悲しくなかった。自分の中でうちが七人家族になることはなかった。
父親がおばーちゃんの死んで年金の心配をしていたのを覚えている。ただ、おばーちゃんの年金でみんな大学生や専門学校に無借金で行けた。
▪️感想
結局、家庭を持って子供ができてからうちって家庭崩壊してたなぁと思う。単純に家族の思い出がないなって所。
友達のYくんちも同じような状況だったのかなと思う。意外にいる?
ヤングケアラーのサポートをして欲しい。そして、介護者のいるケアラー家庭についてもサポートがある事を望みます。
そのうち倒れたジジババは安楽死で殺すことになるから安心しとけ どんなに頑張っても「単純に手が足りない」問題は理屈では解決しないからな 日本に来る若者ってもそんなことする為...