2010-11-01

皆、きまづくなりたくないから、やっている。

人を、部活の練習だとか仕事だとか、そーいうすべきことに縛りつけてるのって、

結局はしがらみなんだな、と思った。

私の所属しているサークルでは、定期的に、大会の運営等ののための会議がある。

色々事情があって、数カ月に一度のその会議は、全国各地の部の代表者が

日本全土のあちこちに集まらなくてはならなくて、時間的にも土日もフルに使わなくちゃで

結構真面目な会議だし、とてもヘビーなものだ。

その会議を尚更ヘビーにしているのは、恒例の毎度毎度の飲み会で、

金土日の夜に、大学生が飲みまくるのだから、それはそれは大騒ぎをする。

一回参加して、閉口した。

ほぼ皆勤の先輩に「なんでですか?」って聞いた。

その先輩は割と不真面目というか、テキトーな人だったので、余計に意外で。

そしたら、「会議常連メンバーの、他の大学のやつらと会いたいから」と言われた。

高校時代、私は某個人競技の部活を辞めようか悩んだことがある。

怪我をしたのだ。でも、やめなかった。

部活の友達と、友達でいたかったからだ。気まずくなりたくなかったからだ。

もちろん、その競技の魅力も無くはなかったのだけれど。

その先輩も、会議だとか、会議にまつわる雑務をきちんとしていたのは、

年に数度しか会えない友達と、心おきなく、後ろめたさなしで飲んで騒ぐためなのだろう。

きちんと運営をこなす達成感も、無くはないのだろうけれど。

「なんでまだ自分はこの競技を続けてるんだろう」って考えた時、

その競技の魅力というのは、あまり有効ではない。そんなに強い選手じゃないし。

勝つと嬉しい分だけ負けるのは嫌だし、練習自体は別に楽しくない。

ただ、部活の合間に皆とダラダラしたりするのが楽しくて、

あんなにしょっちゅう顔を出していたのだ。

思えば、結構ガチ部活上下関係厳しかったり、

先輩のおごりで一緒にご飯を食べる機会が多かったりするのは、

きっとそうやって、部活の人たちをシガラミで雁字搦めにする為なんだろう。

義理だとか、絆だとか、顔を覚えて後輩は先輩に借りを作って

練習から逃げづらくしているんじゃないだろうか。

勝手イメージだけど、義理人情が重んじられる世界って言うのは、

やっていることがキツそうな気がする。やくざとか。

会社とかでも、そーいう上下関係だとか、仲間意識を大切にする所って

もしかしてそれだけ、すべきことがキツいんじゃないだろうか。

濃い人間関係はちょっと古臭くて、もっとドライなのが流行りだけれど

それはそのぶん「効率化」とか「やりがいがある」とかいって、

キツさも減っているから、成り立っているんだろう。

すべきことのキツさと、人間関係の濃さは、比例しないと破綻する。

高校時代の部活では、年々部員数が(幽霊も含めると)減っていくのが悩みだったけれど、

練習出席のノルマをきつくするんじゃなくって、

もっと部員同士で仲良くならなきゃならなかったんじゃないだろうか。

ゆるい空気にして、馴れ合って。弊害もあるだろうけど。

空気を緩くしないで制度化すると、おごりだとか、挨拶しっかりしろ!ってなるんだろうな。

人はしがらみで縛られて、すべきことをしている。

良し悪しじゃなくて、ただの事実として、認識しておくといいかもしれない。

  • 冠婚葬祭とかの親戚づきあいとかもそうなんだよね。 年とって死んだじいちゃんばあちゃんの葬式なんかだと内心はみんなそんなに悲しんでないわけ。天寿だと思ってるわけよ。 それで...

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