とても大切にしていたはずだったのに、今とても危ない状況にあるというのに、どういうわけかあんまり心配するような気持ちにならない。
いなくなってしまうのならば仕方ないのかなって、そんな風に捉えてしまっている。
どうしようもないのかなって、なるようにしかならないのかなって。
思えば僕は彼女に対して十分な世話をしてあげられたわけでもなかった。構うのが面倒なこともあったし、振り返れば後悔すべき事柄もたくさんあるのだろうと思う。
そもそも家になんて来なければよかったのにと哀れむことが何度かあったのだ。彼女の幸不幸を考えるといつも答えが見つからなったし、今もわからない。
ただそれでも友達として、代えがたい家族としてそれなりの関わりを持って付き合ってきたつもりだった。
少なくとも、家族の中ではよく遊び、散歩に行き、愛情を持って世話をしてきたつもりだった。
たくさんの時間を共有していたはずなのに。
今朝方、電話がかかってきて二回目の手術をする段取りが決まったらしい。医者は覚悟しておいてくださいと伝えてきたのだという。
母伝にそのことを聞いても、僕はあんまり何も思わなかった。そう。そんなにひどかったんだと、単純に事実を受け止めただけだった。
愛犬がいなくなる。そういった可能性を考えるとき、心を満たす喪失感に酔いしれそうになる自分がいる。
いつだって喪失は綺麗なのだ。どんな形であれ、失われたものは何ものにも変えがたい価値を伴って輝き始める。
そして、そんな美しさにあてられて感傷的になっている僕自身のことがひどく醜い存在であるように思える。
こんな文章を書いてる時点で終わっている。腐っていやがる。