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私の世代で友達に恵まれない者は、かつてランチメイト症候群となり、あるいは便所飯をせざるを得ない生活に涙を呑んでいた。友達がいないことそれ自体が問題となるのではない。一人で食事をすることそれ自体が苦しいのではない。「あいつは友達がいない人間である」と周囲の人間に思われることが、明確に地位を低下させ、人間としての尊厳を著しく損なわせるのだった。人間性やコミュニケーション能力が高らかに賞賛され、みんなと仲良くできること、みんな一緒の集団行動に足並みを揃えられること、とくに友達を多く所有できる人間ほど値打ちがあるというイデオロギーが支配的であった。裏を返せば、そうした評価軸で採点の低い人間は、江戸時代で言えば穢多・非人である。新たに打ち立てられた被差別社会で暗く生きることを余儀なくされた。いつの世も、人々は被差別者を求めているのだ。
ところが、最近の若者は、良く言えば気骨のある人種が揃っていると聞く。友達がいないことで自らが学内で受けた軽蔑の眼差しに対して、昼休みの食堂で憂さ晴らしに明け暮れているらしい。私たちの世代は、便所で食事を済ませる便所飯が主流だった。 ところが、彼らは食堂でウンコを撒き散らしては、群れている集団に泡を食わせているという。ここに私たちは逆転の解決法をみとめるべきだろう。
実は私の会社の食堂でも、そうした新入社員をちらほらと見かけるようになった。すでに学生時代に、つるんでいる連中の食器の上に妨害されずに大便を盛り付ける術を身につけているのだろうか。その一連の所作はこなれていて目を見張るものがある。全国の大学・民間企業・官公庁では、悪臭が立ち込めることが常態と化してからは、食堂の利用数が軒並み激減しているという。鼻をつまみながらカレーライスをほおばり、かつての屈辱の涙が感涙に変わったことに気づくと、人知れず食堂の隅で私は拍手を送るのである。