それ、1000人10000人が書くようになる「かもしれない」し、書いたら世間の話題のひとつとして注目を集めることもある「かもしれない」し、注目を集めたらうまくすれば良い結果が得られる「かもしれない」ってことでしょw
「かもしれない」の範囲でいいと思うならそれはそれでいいのよ。女性への差別がもしなくなったらいいな~ウフフ、とか、アイヌ差別が消滅したらいいネ~ウフフ、とかね。
でもそれが実現されるべき正義なり理想なりで、重要なもの、尊重すべきものだともし言うとしたら、ブログや増田で書く程度でなんで済ませられるのかな?と。
募金に喩えるならば、「この募金は人類の崇高な意味のための募金!正義!」といっておいて、募金に興味のない人をときに罵っておきながら、自分は募金しなかったり。そして結局ほかの人が実際に募金することもない、現実に発揮された効果はぜんぜんない、という状態。
あんまり大した話じゃないから100円の募金でもいいや、と言う人はいいよ。
募金の必要や正しさをことさら声高に訴えておいて、実のところ有効なことはなんにもしない人、がおかしいということ。
募金を止めさせようとする人の話はだーれもしてない。
募金の必要や正しさをことさら声高に訴えておいて、実のところ有効なことはなんにもしない人、がおかしいということ。 これが違うんだよね。 「募金の正しさを訴えること」が募金...