2010-05-22

http://anond.hatelabo.jp/20100522091915

現実に関しては、嫌なやつしか身の回りにいないって事はないですよ。

一方的なコミュニケーションをとられる場合もあるので、

一概に自分の中の要素が原因だから、で済ませられるものでもないような気がします。

他人を全肯定した方が良いという意見には反対です。

嫌いなものは嫌いで良いと思います。

ただ、どうしてそうなったのか理解していく必要はあるのではないでしょうか。

「なんでもあり」で生きていると大切なものを見失って、

自分がどうして生きているのかわからなくなっていくように思えます。

記事への反応 -
  • どんなに自分に関係のないように思えることも、すべて自分のなかにある。 自己責任という言葉ではなく、もっと根源的なもの。 誰かを非難するときに「自己責任」だと「無責任」に吐...

    • 他人との関わりの中で自分を発見していくのだから 自分一人で追求しても深化出来ない気がする。 人生という舞台で、いつも自分が主役である必要はなく、 その場その場で役割は変...

      • 他人が自分を映す鏡だと考えれば、たとえ自分以外の誰かが主役であってもそれは自分が主役であることと同じだよ。 他人との関わり合いの中で、っていうのはその通りだね。嫌な奴し...

        • 現実に関しては、嫌なやつしか身の回りにいないって事はないですよ。 一方的なコミュニケーションをとられる場合もあるので、 一概に自分の中の要素が原因だから、で済ませられる...

          • ううん、嫌な奴しかいないと思ったら、ということ。 よくいるでしょ。俺の周りには最低な人間しかいない。俺は不幸だ、みたいな感じの人。そういう人の場合についてね。 あとは、...

            • 増田が書いているのは 全肯定というより「諦め」と書いた方がしっくりくる。 嫌いなものがあるからこそ好きなものが輝くわけで、 それはその人の中で作られた信念やルールのよう...

              • 生きるということは執着を持つということですが、生きていくということは執着を捨てていくことでもあると思うのです。

      • 発見せずとも、常に自分はそこにある。 ゆえに、深化させる必要などなく、むしろ「深化」などあり得ないのだと気づくことが大切。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん