2010-03-04

全て俺のためにあるんだ

全て俺のためにこの世が存在してるんだ、って思うことは正しいかもしれん。

論理的に。急に閃いた。

落ち込んで、自分なんかダメだと思ったり、前まであんなに仲良かった女の子の態度がすごい変わって、ありえねええって思ったりしても、全ては俺のためにあるんだと思う事が可能だ。というか、それが正しい。

単純に、どんな不幸があっても、何故落ち込むのか?という疑問。その答えは、自分のためだろう。

自分がどうでもよかったら、どんだけ自分が不幸だって幸せじゃないか。何故なら、自分なんかどうだっていいんだから何にも気にする必要がない。どんな痛みや苦痛があっても自分なんかどうでもいいならお構いなしで、それさえも楽しい幸せだ。だって自分なんて関係ねーもん。そんな状態はいわば「悟り」の状態だ。

結局二元的に考えると、「自分のためか」「自分のためじゃないか」でいって「自分のためじゃない」状態なら、自分は常に幸せだ。何故なら自分なんかどうでもいいから。しかし、そうではないなら完全に「自分のため」だ。自分認識するもの全てが。

普通の人は落ち込む。もうダメだって鬱になる。じゃあなんで鬱になるの?それは、自分のためだろ。

何もできないヒキコモリニートが鬱になるのは、なんで?それも、自分のためだろ。

結局、どんな苦しみも、もしくは惰性であったり、意志に反した行動でも、それは自分のためにつながる。

逆説的に言えば、どんな事象も主観を持って観測している時点で「自分のため」という物差しでしかはかれないし、それが自然。そこに自分のためでしかありえないがゆえ落ち込んでいる状態を、そんな状態自分が求めていないと思おうとするから苦しく感じるんだ。

落ち込むのは何故かって、自分のため意外の何者でもないじゃん。

ゆえに、好きな女の子にありえない態度をとられても、それは自分のためでしかない。

好きな女の子と話せるのも自分のためだし、嫌われるのも自分のためだ。そして、それで落ち込むのも自分のためでしかありえない。

だったら何も気負う必要なくないか?

なんとなく、自分が中心に世界が回ってると思うことが幼いことで、自分は他人の流れの一部でしかないと思うことが正常だと思われてるが、もしかして、これが間違いじゃないのか?

論理的に、同じリンゴでも他人と自分でまったく同じく認識する事は不可能だ。だとしたら、自分がみている事全ては、自分のためでしかない。全てが。既に。

となると、論理的帰結で、世界自分を中心に廻っていると認識せざるおえない。それ以外の認識は、ありもしない認識で、不完全だ。

他人の流れの一部としての自分認識しようとする事は、芽を摘むっている間だけ、実は目の前にリンゴが現れる。自分にはそういう能力があるかもしれないが自分は目を瞑ってるのでわからない。といってるようなものだ。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん