誰かと付き合うということは自分の資源(金、時間、体力)を代償に、
お互いにとって、得られた資源の価値と与える資源の価値が釣り合っているときに「付き合う」が成立する。
話をわかりやすくするために、上記のもろもろの費用を貨幣価値換算する。
誰かと付き合うということは、その人と一緒にいることにお金を払うことである。
自分も払うが相手も払っている。
であるから、好きな人に付き合ってもらえないからと言って、その人を責める権利はないのである。
自社の製品を買ってくれと販促しても、消費者が魅力を感じず購買意欲がわかなければ、売買は成立しないのと同様である。
押し売りすれば余計にその会社のイメージは悪化して、自らの足を引っ張ることになる。
さらにいうと、誰しも「限定された情報から判断する」。
世の中に星の数ほど人間は存在するので、ひとりひとりの人間から得られる情報は有限であり、
そもそも得られる情報が0の人もいて、たとえ出会って深い関係になっていればベストパートナーであったかもしれないにせよ、
それを考え出したらきりがないので、
偶然の要素に左右されて出会った人のさらに偶然の要素に左右されて限定的に得られた情報の中から、
誰と付き合うか、付き合わないか、判断しなければいけないし、
その判断が適切かどうかも死ぬ前にならないと分からない。
人々に際限ない伴侶探しを諦めさせて「楽にさせる」ために結婚と言う制度があると言ってもいい。
世の中に製品は星の数ほどあり、
どの製品を購入すべきか、すべての製品に関するすべての情報を検索している暇はなく、
偶然の要素に左右されて得られた限られた情報の中から最適な判断をして購入する製品を選び、
さらにその製品からたまたま悪い情報が得られた場合に二度と消費者がその製品を購入しないと決めても、
たまたま先に他社のお得意さんになりそれ以外の会社の製品は不安だから購入しないことにすると決めても、
さらに一生満足しながら添い遂げられる確率など0に近いということがわかる。
だからと言って幸せになるための努力をしないのは開き直りであり、
100%の幸せは得られないにせよ確率を高める努力は日々するべきであるし、できるのである。
あるとしたら、一切の努力を放棄し、幸せになることを諦めた時である。
逆説的であるが、不幸で構わないと諦めた瞬間に100%満足した人生を手に入れられるのである。