2009-11-07

なぜ過剰に見積もるんだ

http://b.hatena.ne.jp/entry/h.hatena.ne.jp/umevoshi/9234073158546346500

okome_chan ていうかそもそも、「いる」とか「いらない」って言葉人間を語れること、そこに何の疑問も挟まないことが嫌だ。女を、というより、「他人」を何だと思ってるの?と思う。愛玩動物にだってそんな言葉使わないよ。 2009/11/06

またまた冗談を。「愛玩動物」を扱うペットショップに客が足を運ぶのはペットが「いる」からであり、ペットを買った後に足を運ばなくなるのはもう「いらない」からだ。かりに「そんな言葉使わない」としても、実質は使っているのと変わらないわけでねえ。

でだ、人間に対しても「いる」「いらない」の判断があるのは当たり前だわな。例えば入社試験はそれを行なうことそのものだし、結婚式に知人全てを呼ぶことはない。誰かが心の底から思い出を綴り、気持ちを切々と書いた本があるとしよう。本の形になった「人生」や「人間精神」に対しては、さあ、どうか? これにも「いる」「いらない」の判断はされて何の問題もない。

え? 本は「単なる物」だって? じゃあそういう本を、書いた人間の前で破り捨てられるか? 普通はそういうことはできないだろ。それはもちろん、その本はあきらかに「単なる物」ではないからだ。「単なる物」も、「単なる物では無い物」も、動物も、人間も、「いる」「いらない」の判断をされて何の問題もない。

ただしだからといって、「いる」「いらない」の判断をすることと、理不尽に扱うこととはぜんぜん違う。よほどのバカでない限り分かるはずだな。ペットを「いらない」ということは、ペットをぶち殺したりすることや(人に飼われて)生活力のないペットを野に放り出すこととはぜんぜん違う。人間に対しても同じだ。「いらない」とすることは殺すことや理不尽な仕打ちをすることと同義じゃあない。

元の流れで言えば、「ラブプラスがあるから女はいらない」というのは、これを真に受けたとしてもせいぜい「ラブプラスがあるから(恋愛をする相手としては/恋愛を味わう対象としては)女はいらない」というだけのことに過ぎないだろ? 隣人として、友人として、職業人として、一人間存在として女がいらない、存在を認めない、というのとはぜんぜん違うはずだ(まあ「隣人として、友人として、職業人として、一人間存在として女である『必要』はない」くらいは言うかも知れんけどな。それはそれで、言ってみれば「男でも女でもどっちでもいい」みたいなもんだから、これはまったく男女平等だ)。にもかかわらず、ここにある区別をごっちゃにして「人権も自由も何もかもなくなる」だの「何をされても訴えもできない」だのいうのはただの妄想でしかない。というか、恋愛価値人間として存在する価値、とでも思ってんじゃあなければそんな発想そのものが出てこないはずなんだが。

なにかを過剰に「見積もる」ことがいい状態につながるとはとても思えない。それが実現可能なら、どう見積もろうと勝手にすりゃあいい。だが、実現できない過剰な「見積もり」を叫んだってどうもなるわけがねえ。それを人に押し付けたりするようならなおのことだ。「いる」「いらない」の判断を、人に対してしないなんて本当に徹底できるのかね?

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