2009-10-28

空に一番近い場所はどこだろう。

下校途中に思った鈴は、ぐるっと周囲を見渡して、それからある場所に目を留めた。山もなければ、高層ビルもない、電波塔も建っていなくて、平屋ばかりが軒を連ねる町並みの中、三階建ての規模の小さなデパートの屋上に設置された貯水塔はいやに目立っていたのだ。

夕食の食材を選ぶ買い物客や、本を手に取っている学生、服を見るだけ見ている若い人たちの間に紛れて屋上の駐車場に向かい、人目を忍んで梯子を上る。直径二メートルほどの円筒の上に直立して、鈴は遠く広がる町の風景に目を投じた。天候は曇りで、別段陽射しがあるわけでもなかったのだが、一応遠景を眺める礼儀として掌で額にひさしをつくってみた。

そんな折に、不意に足許で、にゃあ、と鳴き声がした。

おお、と驚いて鈴は視線を下げる。少しだけ開いていた両足の間を縫うようにして、黒猫が一匹擦り寄りながら歩き回っていた。

「むむ。貴殿もこの場所を見つけていたのか」

畏まって口にすると、ふいっと顔を上げた黒猫がにゃあと鳴いた。

鈴は、貯水塔の上に腰を下ろす。足はぶらぶら、宙に放り投げていた。隣で、黒猫も腰を下ろしている。こちらは尻尾がぶらぶら宙を彷徨っていた。そして、ふたりしてぼうっと町を見下ろしている。一番高いと思われる場所から、山際で金色に輝きだした夕焼けに染まる景色を見つめている。

とにかく、高い場所に来てみたかったのだ。そこから見える景色とやらを、この目に焼き付けておきたかった。

車は道路を走っていく。人も、道に沿って歩いている。どれもがいつもよりもちょっぴり小さく、遠いところにあるように見えた。そして、そんな遠い景色を見ていると、わけもなく温かな気持ちになるのだった。

不思議なものだなあ」

鈴は呟いた。

「煙となんちゃらは高い場所に行きたがるというけれど、高い場所からしか見えない景色というものも確かにあるんだよなあ」

発見は当たり前すぎるものだったが、当たり前すぎたためにずしんと身体に響いてきた。

遮るものがなにもない空中を滑空してきた風が、びゅうと鈴と黒猫の頬を撫でていく。

寒いな」

そう鈴が言うと、

「なあご」

黒猫が答えた。

景色を見つめたまま、鈴は黒猫の小さな頭を撫でる。短くてさらさらとしていて、心地のいい毛並みをしていた。野良猫にしては珍しい。そもそも、どうやってこの猫が貯水塔に登ることができたのかが謎だったのだが、そういう珍しい猫だって世の中にはいるのだろうと鈴は納得した。

撫で続ける掌が、微かな反発を覚える。

黒猫もまた、穏やかな撫でられ心地に心奪われていて、もっともっととせがむように頭を押し付け返していたのだった。

様子を、鈴はそっと見つめる。可愛らしいものだと思った。両手でその小さな身体を持ち上げる。膝の上に抱いた。

「にゃお」

黒猫が鳴く。鈴は無視する。

ふたりはそれぞれ静かになって、黙ったまま沈みゆく太陽を望み、闇に沈んでいく街並みを見つめ、ぽつぽつと灯り始めた電灯と、行き交う車のヘッドライトを観察し続けていた。

風が吹いた。晩秋の、シベリア気団から特攻を仕掛けてきた厳しい寒さを伴う北風だった。スカートが少しばかり捲れ上がる。思わず鈴の身体が縮こまる。

ふと夜空を見上げてみれば、雲ひとつない濃紺の宇宙の中に、星がちらほらと輝いているのが見えた。

「帰ろうか」

鈴は口にする。懐に抱いていたはずの黒猫の姿は、もうどこにもない。

掌と膝に残った感触とぬくもりを思い出しながら、鈴はそっと目を閉じた。

「……帰ろうか」

さっきよりも力強く、確かな意思をもって言葉は風に流されていった。

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